神社仏閣の御手洗《みたらし》にかけてある奉納手ぬぐいを、至るところの休み茶屋や、室で見ることである。多くは講中の名を記したものだが、藍、黄、白、黒、柿色などで染抜いた手拭が、秋林の朽ち葉落葉の紛然雑然たるが如く、雲の飛ぶ大空の下、簡単にして大まかなる、富士の大斜線に、砂の如く点ずるところの、室の軒端《のきば》に飜《ひるがえ》っているのは、東海道五十三次の賑わいを、眼前に見る如く、江戸時代以来、伝統の敬神風俗を、この天涯の一角に保存する如く、浮世絵式風景を、日本の一特色として再現せられたる如くに、新帰朝者の眼に映じたのであった。その中で、小御岳の小舎で、亡友、曾我部一紅《そがべいっこう》追悼登山の納め手拭を見出した時、私の眼にうるみを覚えた。富士登山家として、富士に関する図画典籍の大蒐集家として、君は疑いもなく第一人者であった。私の米国|寄寓《きぐう》中、故国に大震災があった。その時君は、貴重なる蒐集品を救いだすため、火宅へ取って返したまま、永久に不帰の人となったそうだ。君の肖像と事蹟とは、米国の親友お札博士の名で日本に知られているところの、スタア氏の著書『フジヤマ』(英文単行本)によって、同情ある筆で世界に伝えられたが、故国で、知音《ちいん》諸氏によって、君を追悼した登山会が催されたとすれば、君にはいい手向《たむ》けである。私も、桑港《サンフランシスコ》で発行される日本字新聞『日米』で、君とスタア博士と富士山との交渉を書いて、心ばかりの供養に代えたが、富士山の納め手拭から、この事を知ったのは、山中でひょっくり君に出逢ったようであった。
 雲ゆきが怪しいので、私は多少の気がかりで、大沢の小舎を立った、すぐ眼の前には、その大沢の難所なるものが控えている。

[#ここから2字下げ]
室と小舎とは、区別を要すべきであろうが、ここでは共通して、用いたところがある(筆者)。
[#ここで字下げ終わり]

    九 乱雑の美

 五、六合間の等高線をゆく、御中道の大沢近くくると、にわかに婉曲《えんきょく》してひた下りに下る。大沢は谷というには浅く、沢としては大きくて深い。頂上内院火口の西壁、剣ヶ峰の側からなぎ落されて、直線に突き切ること三里、力任せにたち割った絶壁の斜面に、墜石崩石は、ざっくばらんにほうりだされている。絶壁の縦断面には、灰青色の熔岩を見ないでもないが、上を被覆《ひふく》するゴロタ石のために、底の岩石を知ることが出来ない。木の葉一枚動かない沈鬱なる空の下に、案じたほどのこともなく向う岸へ渡り、崖の上へ立って振り返ってみると、白衣の道者の一連が来て、大沢の手前でうずくまり、先達《せんだつ》がお祈りを上げている。さながら葛飾北斎の富嶽三十六景中の題目であって、小泉八雲に驚異の目を見張らせた光景である。なお見ていると、小さな石一つ、沢の上から落ちて、豆太鼓《まめだいこ》でも鳴らすような、カラカラ音をさせると見ると、砂煙がぱッと立って、二、三丈ばかりの砂夕立が降る。「さあ、これから、さす(登ること)で」と荷担《にかつ》ぎがいう通り、今度はひた登りに登る。国境に甲斐をまたいで、駿河の領内に入る。ここにも石楠花が枝越しに上からのぞき込む。その天空に浮遊するかの如き、嶮《けん》にして美なる林道を「天の浮橋」と呼ぶそうであるが、何よりも喬木林の陰森さにおどろかされる。木曾の森林にでも迷いいったようで、焼砂の富士、「ほうろく」を伏せた形の石山とは思われない。また白衣の道者の一群に、森の出口でゆき遇《あ》う。彼らは私たちの「逆廻り」を、うさんくさそうな傍目《わきめ》を使って、あわれむが如き素振《そぶ》りでゆき過ぎた。サッとかき曇った空模様は、何かのたたりを暗示するように思わせた。
 桜沢、鬼ヶ沢を越える。富士はもう森林や砂礫《されき》をかなぐり捨てて熔岩の滑らかな岩盤をむきだしにしている。どす黒い霧で、ゆく先も脚の下もよく解らない。西風に吹きつけられた水蒸気が、山の胴体を幾重にも巻いて、凝結しているのだと思う。次いで頭にひらめくものは、放電であった。鼻の先にぴかりと光ったのが早いか、鳴りはためいた。足許に白蟻ほどの小粒なのが、空から投げだされて、算《さん》を乱《みだ》して転がっている。よく見ると雹《ひょう》だ。南は斜《ななめ》に菅笠冠《すげがさかぶ》りの横顔をひんなぐる。あわてて、糸立《いとだて》を肩にひろげたが、透《とお》るようなビショぬれで、ポッケットにはさんだ紫鉛筆の色が、上衣の乳の下あたりまでにじみだした。熔岩の岩盤からは、白糸のようにさばかれた千筋のたき津瀬がたぎり落ちて、どれが道やら、わらじやら、ミヤマハンノキやら、無分別になった。幾たびとなく足をすくわれ、のめり、手を突きながらも、温度は手が凍《こご》えるまで下らなかったので、金剛杖
前へ 次へ
全15ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング