のなまりならんという)を超越して、多くの側火山《そくかざん》と噴気口を行列させている。だれでも目につく大室《おおむろ》山を先手にして、その後に寄り添って、長尾山、片蓋《かたふた》山、天神山、弓射塚、臼山など、富士山を御本丸として大手からめ手に、火山の出城を築きあげている。その凸点だけを残したほかは、全部樹海や、大裾野の緩斜地で、すりおろしのわさびの、水々しい緑にひたっている。
石楠花《しゃくなげ》の群落が一時途絶えて、私の歩みは御庭へと移された。高峰の花のあるところに、お花畑の名はつき物だが、御庭はあまり聞かない名だ。小舎が近ごろ出来て保存の不完全な火山弾が、一つ二つ庭に転がっている。富士の植物はもとより、金峰山から移した高山植物などがその辺に試植されている。ここから精進口の登山新道、三合目へ下りることが出来て、途中に中庭、奥庭などを通過するそうだ。
脚下には、富士五湖中で一番深いといわれている本栖《もとす》湖、それを囲んだ丘陵、遥に高く、天子山脈や、南アルプスの大屏風《だいびょうぶ》が立ちふさがっている。天子山脈の上に、湖水をたたえたような雲は、山の落ち口に添うてはい下る。甲府盆地の方向から、富士川下流の方へと両端を垂下して、陰鬱なる密集状態を作っているところは、まさに来らんとする雷雨を暗示している。山を石膏細工の人形とすれば、雲は衣裳で、あのようにまで、モデルの肢節にぴったり合って、屈伸するものとは思っていなかった。雲が延びると、裾野のぼやけた緑は、水底に揺らめく青草の波になった。さすがに樹海と草原だけは、劃然と境界されて、樹はかたまって藍をたたえ、草は群がって青をよどむ、樹海から立つ炭焼の煙が一筋ほうと中空に霞む。
また森林に入ってからは、途《みち》は前ほどに均《な》らされておらず、木の根岩角は、旧道のおもかげを存して古のお中道が、断絶された凧《たこ》の糸のように、頭上に懸かっているのが指さされる。石楠花は依然多いが、それに次いでは、高根いばらが多く、丈高い茎に大形の紅色の花を着けたのが、消炭《けしずみ》の火のように、かえって暗い感じをさせる。車百合、稚子《ちご》百合、白花蛇イチゴ、コケモモ、ゴゼンタチバナ、ヤマオダマキなどが、陰森たる白ビソ、米ツガ、落葉松などの下蔭にうずくまっている。ここの落葉松は、小御岳では風雪と引っ組んで、屈曲|匍匐《ほふく》しているに似ず、亭々として高く、すらりと延び上っている自然のままの、気高さに打たれる。路は次第に下って、多分三合目位だろうと思われる高度の、大沢の小舎に着く。御中道に昔は小舎がなくて、参詣の道者が難渋するため、そのうちの難所たる大沢に、お助け小舎を置いたそうだが、それは疾《と》くにつぶれて、今のは粗末ながら、普通の旅人宿めいた小舎である。しかし元来、御中道めぐりは、信神の道者を主とするので、近来盛んになった女人の登山も、ここへはほとんど影を見せず、森林と絶壁と深谷とで、四周を切り離されているから、山中の室《むろ》としてのさびが、心ゆくばかり味わわれる。主人は署名帳を出して、私に物書けというから、三、四行したためた。私は登山すべく、あまりに老いたとは思っていないが、まだ登るべき多くの山を控えているから、恐らく生涯に二度とここまで来なかろうと思う。芭蕪翁のわが詠み捨てた句は、一つとして辞世《じせい》ならざるはなしの徹底芸術精神は、学んで到り得るにあらねども、一|順礼《じゅんれい》の最後の足跡までに、印《しるし》をつけておいた。
ここに限らず、富士の室は風俗史的に見て、欧米諸国の山小舎に、ちょっと類例のないものがある。約《つづ》めていえば、永い年代の間、人間味のしみ込みの深さである。室ごとに請《こ》わるるままに、金剛杖に焼印を押すが、不二の象形の下に、合目や岳の名を書いたり、不二形の左右に雲をあしらい、御来光と大書して、下に海抜三千二百何メートルと註してあったり、富士とうずまく雲を下に寄せて、その上に万年雪の詠句を題したものなど、通俗的の意匠が施されている。飲食も、コーヒー、シトロン、紅茶などの近代的芳香の飲料と、阿倍川《あべかわ》もち、力もち、葛湯《くずゆ》、麦粉などの中世的粗野なる甘味が供給される。殊に私の目をひいたのは、登山者参詣人が、室の板壁、屋根裏や、柱に張り残してゆく名札で(それは室に取って迷惑なものかも知れないが)、木版刷、石版刷の千社札に類した人名や登山会の名を記したもので、寸法こそ必ずしも、天狗《てんぐ》孔平以来、江戸末期に行われた何丁がけの法式に則《のっと》らずとも、また平俗であっても、相応の意匠を凝らして作成したもので、アメリカの登山小舎に見る鉛筆の落書や、活字印刷の事務的名刺のはりつけなどよりも、登山そのものを幾分か芸術化させる。それから、江戸時代の
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