頭抜《ずぬ》けてくるのを見つめていた山たちである。今後もそうやって見守っているであろう。富士山中で、大宮口の森林として、もっとも名高いモミ、ツガ、ナラ、モミジ、ブナなどの、夏なお寒い喬木《きょうぼく》帯を通過する。三合目の茗荷谷の小舎では、かけひの水が涼しかった、三合五勺では、名産万年雪を売っている。山の中で、雪を売るということが、一方の室《むろ》で、シトロンやミルクキャラメルを売っているのに対して、いかにも原始的で、室でやりそうな商いではないか。三合五勺を出外《ではず》れると、定規でも当てがってブチきったように、森林が脚下《あしもと》に落ち込んで、眼の前には黒砂の焼山が大斜行する。虎杖《いたどり》や去年の実を結んだままのハマナシ(コケモモ)が、砂の上にしがみついている。すんだ空は息吹がかかったように、サッと曇って、今までどこにいたろうと思われる霧がかかる。木山と石山の境は、やがて白明と暗霧の境界線であった。
四合目となると、室も今までのように木造でなく、石を積み重ねた堡塁《ほうるい》式の石室となる。海抜二千四百五十米、寒暖計六十二度、ここで大宮口の旧道と、一つになるのだと強力《ごうりき》はいう。
私は、前に大宮口はもっとも低いところから、日本で一番高いところに登る興味だと述べた。しかし、も一つある。それは大宮口こそ、富士のあらゆる登山道で、もっとも古くから開けた旧道むしろ古道であることだ。だが、それは今私たちの取った道ではない。大宮浅間神社の裏から粟倉、村山を経て、札打、天照教まで大裾野を通り、八幡堂近くから、深山景象の大森林帯を通過し、約二千メートルの一合目直下から灌木帯を過ぎて今の四合目まで出る道がそれだ、陰にして密なる喬木帯のモミやツガから、ぶら下る長いサルオガセ、濃い緑の蘚苔《せんたい》類と混生する大久保|羊歯《しだ》の茂り具合などは、まだ目に残っている。そればかりではない、足利時代の『鷹筑波集』からも、猿楽《さるがく》狂言からも、また貞徳《ていとく》の「独吟百韻」からも、富士|詣《もうで》の群衆のざわめきは、手に取るように聞えるが、それらの参詣者は、皆この村山口を取ったものであるらしい。今川家御朱印(天文二十四年)にも、村山室中で魚を商なってはならぬとか、不浄の者の出入を止めろとか禁制があって、それには、この村山なる事を明示している。富士の表口というのは、大宮口であるが、つまるところ村山口であったのだ。私がこの道を取って登山したのは約十七、八年前であったが、その当時、既に衰微して、荒村行を賦《ふ》するに恰好《かっこう》な題目であったが、まだしも白衣の道者も来れば、御師《おし》も数軒は残っていたが、今度来て聞くと哀《かな》しいかな、村山では御師の家も退転してしまい、古道は木こりや炭焼きが通うばかりで、道路も見分かぬまでに荒廃に任せているという。私が知ってからでも、その当時新道なるものが出来て、仏坂を経てカケス畑に出で、馬返しから四合半で古道に合したものだが、これも長くは続かず、私たちの今度取った路は最新のもので、二合目で前の新道なるものを併せ、四合目で村山からの古道を合せている。富士のようなむきだしの石山で、しかも懐《ふところ》の深くない山ですら、道路の変遷と盛衰はこのように烈しい。
アルプスにも似た例がある。近代氷河学の祖なるルイ・アガシイ先生は、旧記を調査して、偶々《たまたま》第十六世紀の宗教戦時代に、スイスの Valais の村民が他宗派の圧迫を蒙《こうむ》り、子供たちを引き連れ、Aletsch 氷河の遠方まで、Viesch 谷に沿うて、アルプス山を横切ったとあるを見つけだし、今は到底ゆける路ではないと不審を起して、氷河を踏査せられたところ、Aletsch 大氷河が被覆《ひふく》している底に、立派に保存せられた旧道路を発見せられた旨を記述せられている(Geological Sketches 第二輯、一八七六年刊)。氷河のない富士山は破壊力においてすら微温的であるから、時に雪なだれで森林を決壊し、薙《な》ぎを作ることはあっても、現に今度の大宮口でも、三合目の茗荷岳を左に見て登るころ、森林のある丸山二座の間を中断して、「なだれ」の押しだした痕跡を、明白に認められることは出来ても、人間がこわす道路の変遷の甚だしいのにはおよばない。後の富士登山史を研究する者が、恐らく万葉以来、一般登山者の使用した最古道、村山口の所在地を、捜索に苦しむ時代が来ないとも限らないから、私は大宮口の人たちに、栄える新道はますます守り育てて盛んにすべきであるが、古道の村山を史蹟としても、天然記念物としても、純美なる森林風景としても、保存の方法を講ぜられんことを望む。
我祖先が、始めて神秘な山へ印した足跡を、大切に保存しないということは、
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