永久に続く登山者をも、やがて忘却してしまうことだ。それではあまりに冷たく、さびしくはないか。私はなお思う、古くして滅びゆくもの、皆美し。

    七 石楠花

 いつごろからのいいならわしか、富士の五合目を「天地の境」と称している。五合目では、実際人の気も変る、誰もわらじの緒を引き締める。私は吉田口の五合目に一泊したが、夜中絶えず、人声と鈴音がする。起きて見ると、眼の前の阪下から、ぬっと提燈《ちょうちん》が出る、すいと金剛杖が突き出る。それが引っ切りなしだから、町内の小火《ぼや》で提燈が露路《ろじ》に行列するようだ。大抵の登山者は、ここで一息いれる、水を飲む、床几《しょうぎ》にごろりと横になるのもある。五合目は山中の立場《たてば》である。
 私は、御中道をするために、荷担《にかつ》ぎ一人連れて、小御岳神社の方面へと横入りをした。「途《みち》が違うぞよ」「そっちへゆくでねえぞ」遠くから呼ばった人の親切は、心のうちで受けた。水蒸気があまりに濃《こま》やかであったため、待ち設けなかった御来光が、東の空にさした。しかし旭日章旗のような光線の放射でなく、大きな火の玉というよりも、全身|爛焼《らんしょう》の火山その物のように、赤々と浮び上った。天上の雲が、いくらか火を含んで、青貝をすったようなつやが出る。それが猫眼石のように、慌《あわた》だしく変る。大裾野の草木が、めらめらと青く燃える。捨てられた鏡のような山中湖は、反射が強くて、ブリッキ色に固く光った。道志山脈、関東山脈の山々の衣紋《えもん》は、隆《りゅう》として折目を正した。思いがけなく、落葉松《からまつ》の森林から鐘が鳴った、小刻みな太鼓が木魂《こだま》のように、山から谷へと朝の空気を震撼《しんかん》した。神主の祝詞《のりと》が「聞こし召せと、かしこみ、かしこみ」と途切れ途切れに聞える時には、素朴な板葺《いたぶき》のかけ茶屋の前を通って、はや小御岳神社へと詣《もう》でるころであった。神社の庭には天狗がおもちゃにするというまさかり、かま、太刀などが、散乱している。室の人が、杖に「大願成就」という焼印を押してくれた上に、小御岳の朱印を押した紙に、水引を添えてくれた。これはしかし吉田口の五合目から、富士に向って、左に路を取り、宝永山の火口壁から、その火口底へ下り、大宮方面の大森林に入って、大沢の嶮を越え、小御岳へ出るのが順で、始めて「大願成就」になるのだが、私は故あって、逆に山に向って右廻りをした。そのため一歩踏み出したばかりで、御褒美《ごほうび》の水引きを先へ頂戴してしまった。これは逆廻りといって、道者は忌《い》むのだそうで、案内者をもって自任する荷担ぎの男は、私から右の水引と朱印を取りあげて、遂に返してもらえなかった。
 何故《なぜ》逆廻りをしたかといえば、御中道は、前にも廻っているんだが、小御岳から御庭を通じて、大宮道へ出遇うまでの、森林の石楠花《しゃくなげ》を見たかったのだ。それには毎日午後から雷雨と聞いているから、晴れた朝によく見て置きたいと思ったからだ。幸いにして、石楠花を見る目的は、十分に遂げられた。同時に不幸にして、雷雨の予覚は当り過ぎるほど当った。
 神社を出て、富士の胴中《どうなか》に、腹帯を巻いたような御中道へとかかる、この前後、落葉松が多く、幹を骸骨のように白くさらし、雪代水《ゆきしろみず》や風力のために、山下の方へと枝を振り分けて、うつむきに反《そ》っている、落葉松の蔭には、石楠花がちらほら見えて、深山の花の有する異香をくんじているが、路が御庭へ一里、大沢へ約二里と、森の中へ深いりすると、落葉松の間から、コメツガや、白ビソの蔭から、ひょろ長い丈の石楠花が、星のようにちらつく。それも、横に曲りくねった、普通平地で見るような石楠花でなく、白花石楠花である。高さは一丈以上に達したのも珍しくない。つばきの葉を見るような、厚い革質のくすんだ光沢《つや》があって、先端の丸い、細長い楕円形の葉を群がらしている。その裏返しになったところは、白蝋《はくろう》を塗ったようで、赤児の頬の柔か味がある。美しいのはその花弁だ。白花という名を冠《かむ》らせるくらいだから白くはあるが、花冠の脊には、岩魚《いわな》の皮膚のような、薄紅《うすべに》の曇りが潮《さ》し、花柱を取り巻いた五裂した花冠が、十個の雄蕊《ゆうずい》を抱き合うようにして漏斗《じょうご》の鉢のように開いている。しかもその花は、一つのこずえの尖端に、十数個から二十ぐらい、鈴生《すずな》りに群《むらが》って、波頭のせり上るように、噴水のたぎるように、おどっているところは、一個|大湊合《だいそうごう》の自然の花束とも見られよう、その花盛りの中に、どうかすると、北向きに固く結んだつぼみが見える。つぼみと、それを包む薹《とう》とは、赤と
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