うぐいすのなく音《ね》も交《まじ》る。武蔵野に見るような黒土を踏んで、うら若いひのきの植林が、一と塊まりに寄り添っている、私たちの足許には釣鐘《つりがね》草、萩、擬宝珠《ぎぼうしゅ》、木楡《われもこう》が咲く。瑠璃《るり》色の松虫草と、大原の水分を一杯に吸い込んで、ふくらんだような桔梗《ききょう》のつぼみからは、秋が立ち初《そ》めている。秋の野になくてかなわぬすすきと女郎花《おみなえし》は、うら盆《ぼん》のお精霊《しょうりょう》に捧げられるために生れて来たように、涙もろくひょろりと立っている。
仰げば朝焼けで、一天が燃えている。夕焼のように混濁した朱でなくて、聖《きよ》くて朗らかな火である。富士の斜面のヒダは、均整せられて、端然たる中にも、その高いところは光を強く受けて、浮彫につまみ上り、低い裂け目には暗い影が漂っている。全体としては、素焼の陶器の雅味《がみ》である。富士が小さく見えるのもこれだ。表裏に廻り、左右から見直しても、「あなたこなたも同じ姿」の八字の輪廓と、円錐の形式とは、連嶺構造の山と、鋭利に切り込まれた深谷を見た目からは、浅いものに見せるかも知れぬ。だがそれは、大裾野を忘れているからだ。裾野は富士の物だ、富士のものを富士に返して、東海の浜にまで引き下《さが》り、さて仰いで見たまえ。それから数十里の裾野を、曲馬の馬が、同じ円周を駆けめぐるように、廻って見たまえ。それこそ富士という彫刻品の、線と面の回転だ、そこに驚くべき変化と偉大さを発見するだろう。
あるいは一歩さかのぼって、裾野がいまだ生成しないうち、富士と、愛鷹と、箱根が、陥没地帯の大海原に、火山島のように煙を吐いて、浮かんでいたところを想像すれば、今日の豆南諸島の大島、利島、三宅島などが、鋪石《ほせき》のように大洋に置かれているのと似て、更に大規模なる山海の布置を構成するであろう。今のような裾野となって、富士の登山が一しお悦《よろこ》ばれるのは、絨氈を布《し》く緑青の草と、湿分を放散する豊富な濶葉《かつよう》樹林とにあろう。旅人がアンデスの登山を悦ぶのは、麓が永久の春であるからだそうだが、山の天国は、発達した裾野を有するところの、富士火山帯に多くあらねばならない。それから山の全裸体像として、線や、光や、影や、円味やを研究するのに、富士ぐらい秘密を許してくれる山はあるまい。縦横はもとより、富士ばかりは恐らく螺旋《らせん》状にでも上れよう。結局富士は、探検家の山でなくて、女でも、子供でも、老人でも、心|易《やす》く登れる全人類の山だ。殊に旅人の山だ。私も旅人として富士を讃美する。
アルプスの美を、知覚的に讃美したのは、スイスの農夫でなくて、旅人であった如くに、富土山もそうであった。「天地《あめつち》のわかれし時ゆ、神さびて」と歌った山辺赤人《やまべのあかひと》は旅人であった。太刀《たち》持つ童《わらべ》、馬の口取り、仕丁《しちょう》どもを召連れ、馬上|袖《そで》をからんで「時知らぬ山は富士の根」と詠じた情熱の詩人|在原業平《ありわらのなりひら》も、流竄《りゅうざん》の途中に富士を見たのであった。墨染《すみぞめ》の衣を着た坊さんが、網代笠《あじろがさ》を片手に杖ついて、富士に向って休息しているとすれば、問わずして富士見|西行《さいぎょう》なることを知る。富士くらい大詩人を持った山が、地球上のどこに存在しているだろう。名もない一遊子ではあるけれど、私も幼い時から、富士の影を浴びて、武蔵相模で育った一児童として、永い間の外国生活から、故国へ放還された一旅人として、親友と、子供と、忠実なる案内者とに囲まれて、今富士の膝下《ひざもと》へ来て亡き母の顔に見《まみ》えまつるが如く、しみじみと見ているのだ。
今にも大野原の上を、自由に飛翔しようとする大鳥が羽翼を収めて、暫く休息している姿勢を、富士は取っている。空気は頬一杯に吹かれてビードロのように、薄青い光を含んで流動している。そして野も、山も、森も、朝の光線にひたって、ああ光ほど不思議な現像液はあるまい。幻からはっきりと、物体のつかめる現実の世界となった。
六 富士の古道
この前に来たときは、裾野の路という路は、馬力のわだちのあとで、松葉つなぎにこんぐらがり、太く細く、土が掘れたり、盛り上ったりして、行人を迷わせたところに、裾野らしい特色があったが、今は本街道然たる、一筋路が、劃然《かくぜん》と引かれて、迷いようもなくなった。
一合から一合五|勺《しゃく》の休み茶屋、そこを出ると、雲の海は下になって、天子《てんし》ヶ岳の一脈、その次に早川連巓の一線、最後に赤石山系の大屏風《だいびょうぶ》が、立て列《つら》なっている。富士の噴出する前から、そこに居並んで、もっとも若い富士が、おどろくべく大きく生長して、
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