樺の稚樹《わかぎ》に、三方を囲まれ、一方は原に向いている、水はうす汚なくて、飲もうという望みは引ッ込んだが、草影、樹影、花影が池に入って、長い濃い睫毛《まつげ》が、黒い眼の縁《ふち》に蓋をしている、緑晶のような液体の上を、水虫が這っている、それが原の中の「眼」から、転ぶように動く涙のようだ。鳳凰山地蔵岳の大花崗岩山は、その峻《けわ》しい荒くれた膚を、深谷の空気に、うす紫に染めている。
 それからまた針葉樹林を駈け下りる、水の音がするすると、樹の間を分けて上って来るようだ、水! 水! 連日味わなかった水! 一同は狂気のように躍り上って、悦んだ、そうして小さい谷川へ下りたときには、敷石の水成岩の上に、腹這いになって、飲む、嗽《すす》ぐ、洗う、もう浸《つ》かるばかりにして、やっと満腹した。
 それから大樺谷を右左に、石伝いに徒渉すると、窮渓が開けて、林道となった、材木の新しく伐り倒された痕を見つけて、もう人がいると思った、羊歯《しだ》や木賊《とくさ》の多く生えている谷沿いの、湿地を下りてから、路も立派についている、能呂川の縁の、広河原というところへ出た、『甲斐国志』能呂川の条に「河側に木賊多
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