だ。
 空の気味の悪いほど、奥まで隙《す》いて光っているだけに、富士山は繻子《しゅす》でも衣《き》たように、厚ぼったくふやけ[#「ふやけ」に傍点]ている、いつもの、洗われたように浄い姿ではない、重々しい、鼠ッぽい色といったらない。
 いつの間にか、仲間が一人来る、二人|蹤《つ》いて来る、岩の上には、黒いピリオドが、一点、二点、三点――視線は一様に、鼠色のそれに向う。
 富士かね。
 富士だよ。
 あの山は眠ったことがないから、醒めたこともないというような、澄した顔つきをしている、私たちとの距離は、いよいよ遠くなった、その間を煙のように、眼先を霧が立って、右へ往きそうになったり、左へ思い出して、転がったりしている。
 厚味の雲の奥で、日が茜《あかね》さしたのか、東の空が一面に古代紫のように燻《くす》んだ色になった……富士の鼠色は爛《ただ》れた……淡赭色の光輝を帯びたが、ほんの瞬く間でもとの沈欝に返って、ひッそりと静まった。
 フツ、フツと、柔くて、しかも鋭敏な音を立てて霧――雨が来た、偃松も、岩も、山も、片ッ端から白い紙になって、虚空に舞い上る。
 富士も一息に吹き消された、土地という最
前へ 次へ
全70ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング