しび》、音曲、寄席、芝居がある、群集と喧噪の圧迫から遁《に》げて、天涯の一角に立ったときに、孤独と静粛の圧迫!
 少し明る味がさした、明る味のさした方角を東に定めている、その東の空が、横さまに白く透いた、奥の奥の空である、渋昏《しぶくら》く濁った雲の海の面《プレーン》が、動揺混乱するけはいが見える。
 外套をふわりと脱いだように、眼の前の霧の大かたまりが、音もなく裂けて、谷へ落ちた。
 富士山が、すッきりと立った。
 名も歴史もない甲州アルプスに、対面して、零落《れいらく》の壮大、そのものが、この万年の墳墓を中心にして今虚空を奔《はし》る。
 空々寂々の境で、山という山の気分が、富士山に向いて、集中して来る、谷から幾筋とない雲が、藍の腐ったような塊になって、立ち昇る、富士山はこの雲と重なって、心もち西へ西へと延びて来るようだ、蝕《むしく》った雲の淵の深さが、何十尺かの穴となって、口が明く。
 頭がようやく冴えて来た、足許の岩では、偃松が近くは緑に、遠くは黯《くら》くなって、蜿《う》ねっている、天外絶域の、荒れはてた瘠土《やせつち》にまで、漂って来た、緑の垂直的終点を、私は今踏んでいるの
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