になって、蝙蝠岳の残雪は、下で仰いだような、一条や二条ではない、数斑の白が、結晶したように劃然と碧空を抜き、鮮やかに、眉に迫って来る。
 今朝の小舎からは、もう一里余も来たであろう、深林の中に踏み均《な》らした小径がある、晃平は「こりゃ鹿の路だあ」と言って、目もくれずに先へ立って登る、禿木《はげき》の枯れ切った残骸が、蒼玄《あおぐろ》い針葉樹林の間に、ほの白く見える、死んでも往生が出来ないという立ち姿だ、霧がフーッと襲って来て、樹々の間を二めぐり三|巡《め》ぐりして、白檜の梢に、分れ岐《わか》れになり、ひそひそと囁《ささや》き合いながら、こっち[#「こっち」に傍点]を振り返って、消えてしまう、間の岳と蝙蝠岳の峰々の繋がりは、偃松《はいまつ》であろう、黯緑《あんりょく》の植物で、繍《ぬ》ってあって、所々に白雪の団々が見える、この赤石山脈の大嶺は、始終私たちを瞰下《みおろ》して、方幾里の空中を、支配する怖ろしい王さまででもあるように、蜿蜒と深谷を屏風立に截《た》ち切っている、そうして肩から雲を吐く、雲は梢に支えられて、離れ離れではあるが、私たちの頭へと、徐《おもむ》ろに集まって来るらしい、
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