る。水に漂流したまま、置いて行かれたのであろう。そうして、山榛《やまはん》の木、沢胡桃《さわくるみ》などが、悄然《しょうぜん》と、荒れ沢の中に散在している。栂、樅、唐檜《とうひ》、白樺などは、山の崕《がけ》に多く、水辺には、川楊や、土俗、水ドロの木などが、疎《まばら》に、翠の髪を梳《くしけず》っている。七月の炎天も、この谷間までは迫って来ないと見えて、白剥山を一つ超えて、東俣の谷へ来ると、未だ若葉、青葉の新緑が、生々しかったが、ここまで溯ると、濶葉、細葉は、透明を含んだ、黄の克《か》った、明るみのある嫩《わか》い緑で、霧の雫《しずく》にプラチナのように光った裏葉を翻えしている。峰には未だ、残《のこん》の雪がかっきりと、白く浮き上って見えるほどである。一体に、谷は、四月の末か、五月頃の柔々しい呼吸で充ちていて、大きな声を出すのすら、いたいたしいようだ。しかし、駒鳥の錘《もり》を投げるような鋭い声は、沈滞がちな、中層の空気を引っ掻き廻している。
 飯の準備をしているうちに、驟雨《しゅうう》が一としきりあって、雷鳴が近くに聞えたが、夜に入って、星が瞬いた……かと思うと、淡い、軽い霧が、銀河の
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