、底を傾けて、水を震うので、森の中まで、吹雨《しぶき》が迷い込んで、満山の樹梢を湿《うるお》す。白樺や五葉松は、制裁もなければ、保護もなく、永《とこし》えに静粛に、そして厳格に、造化の大法を、寸分容赦なく行ってゆくように、この自然の王国から、定まれる寿命を召されて、根こそぎに、谷の中にたわいなく倒れている。床几《しょうぎ》代りにまた腰をかけて、少し休む。河原の砂に、点々として、爪痕のあるのは、水を飲みに下りた、鹿の足痕であると、猟師はいう。同行の高頭君は、退屈紛れに、杖を沙上に揮《ふる》って、それを模写していた。自然は欺かれず、人間の智能は、鹿の足痕一つをだに描き得なかった。
 昨夜は、この旅行で、初めての野宿で、睡眠不足であったためか、私は眠くなった。風は峡間にどこからともなく漲《みなぎ》って来て、樹々の葉は、婆娑婆娑《ばさばさ》と衣摺《きぬず》れのような音を立てる。峡谷の水分を含んだ冷たい吐息が、頬《ほお》や腮《あご》にかかる。川の水が子守歌のように、高くなり、低くなって、私たちの足音を消して、後から追い冠せて来るときには、一行はまた、森の中の人となっていた。森の中には款冬《ふき》
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