て腐蝕しながらも、奉納白根大日如来寛政七年乙卯六月と読まれた、白峰赤石両山脈の頂で、山の荒神たちと離れられない関係があるらしい、鉄の槍身が、赤|錆《さ》びになって仆《たお》れていた。
 山頂の眺めは、こうしている間にも、絶えず変っている、仙丈岳の頂上は、雲に包まれてしまった、赤石山脈は間の岳だけを残して、千枚沢岳と悪沢岳とが、消え失せた、脚の下は天竜川だけが認められて、木曾山脈は、紺の法衣《ほうえ》を着た坊主が行列しながら、帳《とばり》の中へ一人ずつ包まれるように、見えなくなった、大樺《おおかんば》谷の左には、大樺池が森林の底に小さく、穴のように見える、末の梢と頭の枝とが、緑に濃淡の調子をつけて、森然として沈黙している。
 測量標の直ぐ下は、野宿に適当な広い平地があって、それから凄《すさ》まじいほど、垂直の断崖を作《な》している、その下が雪田で、雪解の水は大樺の谷、それから小樺の谷へと、落ちているらしいが、そこまでは解らない。
 ともかく北岳というところは、北は駒ヶ岳、北西は仙丈岳、西は木曾山脈、南が間の岳、農鳥、北東が地蔵岳鳳凰山などと、高度我に下りながらも、ほぼ等しい大山岳圏に囲繞《いじょう》せられているから、北アルプスの高山で見るような、広々とした眺望は獲《え》られない。
 この白峰山脈縦断旅行も、これでおしまいになるのかと思うと、嬉しいような、気抜けがしたような、勝利の悲哀といったような、情《なさけ》ない心持が身に沁み泌みと味われて来る。

    信濃金梅・木賊(大樺谷に下る記)

 北岳三峰中の最北端まで来ると、石で囲った木の祠《ほこら》があって、甲斐が根神社と読まれた、そこから何百|米突《メートル》か低くなって、尾根の最北端に駱駝《らくだ》の瘤《こぶ》のような峰が、三個ほどある、これを私は仮に、三峰岳と名をつけた、この岳から谷が切れて、北に仙丈岳が聳えている、尾根伝いに北の方、甲斐駒を隔てて八ヶ岳と、その天鵞絨《ビロード》のような大裾野を見た、下りがけに小さな雪田が、二ツばかりあった、人々は雪を爪でガリガリ掻きながら、うまがって喰べた、ツガサクラや、黄花石楠花の間を伝わって、三峰岳の方に向いながら、途中から偃松《はいまつ》を横切って、大樺谷へと下りた、偃松が尽きると、春の低原地に見られるような、生々しい緑の草葉が、陰湿の土を包んで、その傾斜が森林の中まで落ちている、草ばかりではない、小さい切石や、角石が隠れていて、踵《かかと》でも足の指でも噛まれて、傷だらけになる、信濃金梅《しなのきんばい》の花は、黄色な珠を駢《なら》べて、絶頂から裾までを埋めた急斜の、大黄原を作っている、稀に女宝千鳥や、黒百合も交っているが、このくらい信濃金梅の盛《さかん》に団簇《だんそう》したところは、外の高山では、見たことがない。
 白樺の痩せた稚い樹が出て来て、その中から山桜の花が、雪のように咲いている、四月の色は北岳の北の尾根から、信濃金梅の傾斜を伝わって、この森林にまで、流れ込んでいる。
 次第に喬木の森林に入った、白く光る朽木は、悪草の臭いや、饐《す》えたような地衣の匂いの中に立ち腐れになっている、うっかり手が触れると、海鼠《なまこ》の肌のような滑らかで、悚然《ぞっ》とさせる、毒蚋《どくぶと》が、人々の肩から上を、空気のように離れずにめぐっている、誰も螫《さ》されない人はない、大樺池《おおかんばいけ》を直ぐ眼の下に見て、ひた下《お》りに下る。
 森がちょっと途切れて、また草原になる、雪の塊が方々に消え残っている、大樺池は、この緑の草原の中で、針葉樹や白樺の稚樹《わかぎ》に、三方を囲まれ、一方は原に向いている、水はうす汚なくて、飲もうという望みは引ッ込んだが、草影、樹影、花影が池に入って、長い濃い睫毛《まつげ》が、黒い眼の縁《ふち》に蓋をしている、緑晶のような液体の上を、水虫が這っている、それが原の中の「眼」から、転ぶように動く涙のようだ。鳳凰山地蔵岳の大花崗岩山は、その峻《けわ》しい荒くれた膚を、深谷の空気に、うす紫に染めている。
 それからまた針葉樹林を駈け下りる、水の音がするすると、樹の間を分けて上って来るようだ、水! 水! 連日味わなかった水! 一同は狂気のように躍り上って、悦んだ、そうして小さい谷川へ下りたときには、敷石の水成岩の上に、腹這いになって、飲む、嗽《すす》ぐ、洗う、もう浸《つ》かるばかりにして、やっと満腹した。
 それから大樺谷を右左に、石伝いに徒渉すると、窮渓が開けて、林道となった、材木の新しく伐り倒された痕を見つけて、もう人がいると思った、羊歯《しだ》や木賊《とくさ》の多く生えている谷沿いの、湿地を下りてから、路も立派についている、能呂川の縁の、広河原というところへ出た、『甲斐国志』能呂川の条に「河側に木賊多
前へ 次へ
全18ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング