さ》りながら、大石の側へ、寄って来る、そこには宗義が先刻から、銃を取り直して待っている、しかし火蓋の切りようが、狙った壺より少し早過ぎたために、羚羊はびっくりしながらも、驚くべき速力で、向うの山へと駈け上った、そうして偃松の傾斜の中へ入って、岩を楯にまたキョトンとして、こっちを見ている、角は木の枝のようで、体は岩のようにぴったりと静まる、宗義は銃を負って、岩から岩を殆んど四足の速さで、飛びながら追っかけたが、竟《つい》に遁《に》がしてしまった、もっとも羚羊は跛足を引いていたから、たしかに銃丸《たま》が、足へ当ったろうとは後で言っていたが。
 ここから仰いだ白峰の北岳は、峻急に聳えて、肩幅も、おもいの外広く、頂上は幾多のギザギザがありながら、大体において平ッたく切截したようになって、間の岳つづきの尾根から、抓《つま》み上げられたように、北方の天に捏《こ》ねられている、まるで麦酒《ビール》の瓶を押し立てたようだと、高頭君は半ば恐怖を抱いて言った、その壮容は、殉教者や迷信者を作って、引き寄せるだけの価値があった、もう日は真ッ直ぐに照りつけるようになって、黄色の烈しい光線が、眼をチラチラさせる、未だ午前《ひるまえ》であったが、これからいよいよ北岳登りになるのだから、一行は高山植物の草原に足を投げ出して、塩のない、皮の固い結飯《むすび》を喰い初めた、福神漬の菜《さい》に、茶代りの雪を噛んだが、喉《のど》がヒリつくので、米の味も何もなかった。それでも東に甲府平原と、それを隔てた富士山、西に伊那平を踏まえている木曾駒山脈、北の仙丈岳と駒ヶ岳、近くに北岳を仰いで、昼飯を済ました心持は、悪くはなかった。
 雪田に沿いて、北岳に向う、先に尖った筋と見たものは、皆一丈もあろうという岩石の重畳で、五つか六つ石が堆《うずた》かくなっているように見えたのは、岩石で組んだ立派な峰《ピーク》であった、その中でも、巨岩が垂直線に、鼻ッ先に立ちふさがっているところは、身を平ったく、岩と岩の間を潜ったり、這《は》ったりした、およそ間の岳から北岳の峰までの、石の草原には、深山薄雪草《みやまうすゆきそう》、深山金梅《みやまきんばい》、トウヤク竜胆《りんどう》、岩梅《いわうめ》、姫鍬形《ひめくわがた》、苔桃《こけもも》などが多いが、その中で、誰の目にもつくのは、長之助草である、この偃地《えんち》性の小灌木は、茎の粗い皮を、岩石に擦りつけるようにしている、槲《かしわ》に似て、小さい、鈍い、鋸の歯のように縁を刻んだ葉を、眼醒《めざ》めるように鮮やかな緑に色づけて、その裏面にはフランネルのような白い毛が、おもての緑と対照するために、密やかに布《し》いている、恰度《ちょうど》一枚の葉で、おもては深淵の空を映し、裏は万年雪を象《かたど》ったようである、卵形の白い花が八弁、一寸位の小さい花梗の頭に、同じく八個の萼《がく》を台にして、安住している、同じ日本アルプスでも、他所の長之助草に比べて、花でも葉でも、一と際小さい方であるが、それでも殆んど草原を埋めるばかりに群って、白山一華《はくさんいちげ》や、チングルマなどと交って、岩穴や山稜《リッジ》の破れ目に、咲いている、皺《しわ》のあるところに白い花がある、襞《ひだ》の折れたところに白い花がある、溝の穿《うが》たれたところに白い花がある、白い花が悉《ことごと》く長之助草だとは言わないが、白い花の中に、この花を見ないということはないほどである、大籠山の裏白金梅と、間の岳北岳間の長之助草とは、我らの一行によって確められた、この高山植物の最大産地――今まで知られているところでは――であった。
 倉橋君と私と一緒になって、石の峰を絶頂まで辿りついたころは、正午を少しばかり過ぎた、高頭君以下も、やがてつづいて来た、絶頂は大別すると、三つに岐《わか》れていて、偃松が少しばかり生えている、初めのは四角張った石を畳み上げてある、中には三角測量標が立っている、高く抜き出る北岳の頂から、更に自分だけ高く抜いたこの三角点は、日本南アルプスの中で、縋《すが》り得べき土地の垂直的突端である、それから上は絶対無限の空ばかりだ、三角標の基脚には黄花石楠花《きばなしゃくなげ》、チングルマ、アオノツガサクラ、浦島ツツジ、四葉シオガマ、白山一華、偃松などが西の障壁へと、斜めに飛び飛びに漂っている。
 小さい石祠がある、屋根には南無妙法蓮華経四千部と読まれた、大日如来《だいにちにょらい》と書いた木札が建ててある、私たちの一行より、二十日も前に登山した土地測量技師や、昨年登山した東京の人たち、山麓|蘆安《あしやす》村でよく聞く名の森本某、名取某の名刺が散らばっている。
 外にも壊れかかった石祠がある、中には神体代りの小鉄板が、※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さ》び
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