えて、ひとり高く半天に立っている。
 石の急壁を登りかけていると、雷鳥が一羽、ちょこちょこと前を歩いている、晃平が、狙いをつけて一発放したが、禽《とり》は横に逸《そ》れて、截《き》られた羽が、動揺した空気に白く舞った、一行手取りにするつもりで、暫く追いかけて見たが、掌中の物にはならなかった。
 疲労の足を引き擦《ず》って、石壁の上に登りついたとき、眼は先ず晶々|粲々《さんさん》として、碧空に輝きわたる大雪田、海抜三千百八十九|米突《メートル》の高頂から放射して、細胞のような小粒の雪が、半ば結晶し、半ば融けて、大気を含んだ、透明の泡が、岩の影に紫色を翳《かざ》しているのに、眩《まば》ゆくなるばかりに駭《おどろ》いた、南方八月の雪! 白峰をして白からしめた雪! 我ら一行の手は、初めてこの秘められたる、白い肌に触れたのである。

    羚羊・長之助草(北岳の絶巓に登る記)

 それから尾根伝いに、間の岳の絶頂まで這い上り、三等三角測量標の下に立った、北西に駒ヶ岳(甲斐)の白い頭が、眼前の鋭い三稜形をしている北岳に、挟みつけられて見える、霧が来て散った。
 この附近は偃松《はいまつ》の原でなければ、暗礁のような岩角が立っていて、高山植物が点じている、なお北岳を見ていると、東の谷、西の谷、北の谷から霧が吹いて来て、その裾は深谷の方に布《し》きながら、頂上を匝《め》ぐって、渦を巻いている。西北の仙丈岳を前衛として、駒ヶ岳、鋸岳、木曾駒山脈の切れ間に谷が多いので、このように水蒸気も多く、そうしてこの山を目がけて、吹きつけるのであろう。
 大雪田の石の峰を超えて、三角点の下に来た、木曾山脈を西に控えて、その間の高原を、天竜川が白く流れ、仙丈岳は渓谷を隔てて、その頂上の、噴火口と擬《まが》いそうな欠けたところが、大屋根の破風《はふ》のように聳《そび》えて、霧を吐く窓になっている。駒ヶ岳の白い頭は、白崩《しろくずれ》山の名を空しくせずに、白く禿《は》げて光っている。
 間の岳の峰から、北岳まで尾根が繋《つな》がっていることは、ここで初めて確かめられた、我が三角測量標の下には、窪地があって、そこには雪田が白く塊まっている、一丁ほども歩いたかと思うと、また雪田がある、築土《ついじ》の塀の蔭に、消え残った春の雪のようだが、分量は遥かに多い。
 石の壁は南方から連なって、人の歩く路を窄《せば》めている、もうこの辺からは、雪田が幾筋となく谷へと繋がっている、高頭君の説明するところによると、日本北アルプス中の白馬岳の雪とは、比べものにならないが、十月頃の白馬岳なら、この位なものであろうか、ということである、一体が暖かい南アルプスに、このように雪が多いのは、未だ山上では、春であるからであろう。
 間の岳から北岳までは、北へ北へと、駿河甲斐の国境を、岩石の障壁が頽《なだ》れをうって、肩下りに走っている、その峰は皆剣のように尖れる岩石である、麻の草鞋《わらじ》が、ゴリゴリと、その切ッ先に触れて、一本一本麻の糸が引き截られるのが、眼に見るようで、静《しずか》に歩くさえ、砂でも噛み当てたように、ガリガリ音がする、あまり峻《けわ》しいから、迂回しようとして、足を踏み辷《す》べらすと、石の谿《たに》が若葉を敲《たた》く谷風でも起ったように、バサバサと鳴り出して、大きい石や小さい石が、ひた押しに流れて、谷底へと墜落するのもある、中途で石と石と抱き合って、停まってしまうのもある、その石の壁の頂には、偃松が多く、高山植物の中にも、ミヤマオダマキがうす紫の花を簇《むらが》して、岩角に立っているのが、色彩が鮮やかで、こんな寒い雪や氷の、磽※[#「石+角」、第3水準1−89−6]《こうかく》な土地も、深碧の空と対映して、熱帯的《トロピカル》に見えた。
 峰伝いに下って、いよいよ北岳の直下まで来ると、雪田が二ツほどある、長さは二十町もあろう、その雪田の谷底に接触する尖端から、雪が融けて水になって、流れているのもある、この雪田は白馬岳のに、やや匹敵することが出来るが、厚味がそれほどないと、高頭氏は言った、それでもこんな大残雪があって見ると、日本北アルプスのみ、雪の自慢をさせて置けないと追加した。
 ふと後から荷をしょって来た人足どもの、噪《さわ》ぐ声がする、東の峡間に、一頭の羚羊《かもしか》を見つけ出したのだ、なるほど一頭いるわいと気が注《つ》くころ、中村宗義は銃を抱えて、岩蔭を岩蔭をと身を平ッたく伝わって、谷側まで下りた、円く肥えた羚羊は、キョトンとした顔をして考えている、その短い角が碧空に動かずに、シーンと立っている、晃平の采配で、人夫一同は石を上から転がす、シッシッと叫ぶものがある、ホーイ、ホーイ、ホーイと怒鳴《どな》る声がする、羚羊は石の転がり方を冷たく見て、一、二尺ずつ退《す
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