は湖水のように澄徹した碧空が、一筋横に入っている、中農鳥とおぼしき一峰を超えると、また一峰がある、日が昇るに従って、雲や霧は、岩と空の結び目から、次第に離れて消えて行く、葉を一杯に荷った楡《にれ》の樹のような積雲は、方々が頽《くず》れて、谷底へと揺落してしまう、そうしてその分身が、水陸両棲の爬行《はこう》動物のように、岩を蜿ねり、谷に下って、見えなくなる。
 空は高くなって、四方は壮大な円形劇場《アムフィセアタア》のように開展する……出た……出た……木曾御嶽は、腰から上、全容を現わした、木曾駒ヶ岳も近くに立ち上った、方々から頭を白く削った稜錐状《ピラミダル》の山々が、波のように寄せて来た。
 脚下の谷へ追い落された水蒸気の団々は、反曲の度を高めて、背を山に冷やさせ、顔を日光に向けて、ふわりと立って飛ぶ、それが長く繋《つな》がって、日を截《た》ち切ったかと思うとき、異常な光がチラリと岩角に落ちた、ふと見上げると、円い虹のようなものが、虚空の中に二輪も、三輪も結ばれた、その輪の中に、首を貫ぬいて五、六丈もあろうかと思うような、黒い巨人が、ヌーッと立っている、富士登りの道者のいう、三尊の阿弥陀の来迎はこれだ、侏儒《いっすんぼうし》のような人間が、天空に映像されたときに、このような巨人となったのだ、我らが手を挙げると、向うでも挙げる、金剛杖を横縦《よこたて》に振り廻わすと、空の中でも十字架を切る。暁を思わせるうす紅色で、雨気を含んだ虚空に、浸み透るように、暈《ぼか》して描かれた自分たちの印画は、この大なる空間を跨《また》いで、谷間へと消え落ちた。
 この山の上で、朝から夕立に遇っては堪まらないと、多年山登りの経験から気がついて、呆れ顔の導者を促して路を急ぐ、岩角を上ったり、下ったり、偃松や黄花石楠花の間を転がるようにして走ったが、その間に幻影は消え消えながら、三度出た、しかし心配ほどもなく、霧は奇麗《きれい》に拭われて、雨にはならなかった。
 間《あい》の岳《たけ》は大断崖を隔てて北に聳えている、北岳はここからは見えない、峻急な山頂の岩壁を峰伝いに北に向けて直下する。間の岳はもう眼の前に立っている、山の空気が稀薄で透明になっているから、それが近いように見えていて、歩くに遠いのが解る。
 雪で釉薬《つやぐすり》をかけたように光る遠くの山々は、桔梗《ききょう》色に冴《さ》え渡った空の下で、互いにその何百万年来の、荒《すさ》んだ顔を見合せた、今朝になって始めて見た顔だ、或るものは牛乳の皮のように、凝《こお》った雪を被《かず》いている、或るものは細長い雪の紐《ひも》で、腹の中を結えている、そうして尖鋭の岩を歯のように黒く露わして、ニッとうす気味悪く笑っている。
 目的《めあて》は間の岳にある、残んの雪は、足許の岩壁に白い斑《ぶち》を入れている、偃松はその間に寸青を点じている、東天の富士山を始めて分明に見ながら、岩や松を踏み越えて、下りると、誰が寝泊したのか、野営地の跡が、二カ所あった、石を畳み上げて、竈《かまど》が拵えてあるので、それと知れたのだ、偃松の薪《たきぎ》が、半分焦げて、二、三本転がっている。
 尾根を伝わって、東に富士山、西に木曾の御嶽を見ながら行くと、また野営地があった、そこはちょっとした草原になっていた、雪解の水で湿《しめ》っているところへ、信濃金梅《しなのきんばい》の、黄色な花の大輪が、春の野に見る蒲公英《たんぽぽ》のように咲いている、アルプスの高山植物を、代表しているところから、アルプスの旅客が、必ず土産に持ちかえるものにしてあるエーデルワイス(深山薄雪草《みやまうすゆきそう》)は銀白の柔毛《にこげ》を簇《むら》がらせて、同族の高根薄雪草《たかねうすゆきそう》や、または赤紫色の濃い芹葉塩釜《せりばしおがま》、四葉塩釜《よつばしおがま》などと交って、乾燥した礫《こいし》だらけの窪地《くぼち》に美しい色彩を流している。
 振り返れば、間の岳(赤石山脈)や、悪沢岳の間から、赤石山が見える、そうして千枚沢の一支脈は、兀々《ごつごつ》した石の翼をひろげて、自分たちの一行を、遥かに包もうとしている。
 東へ方向を取って、また北へと折れる、右にも左にも、雪田がある、ここから近く見た間の岳は、破れた石を以て、肉としている、おそらくその石を悉《ことごと》く除けば、間の岳は零《ゼロ》になるであろう、その石だ、老人の皺のように山の膚に筋を漲《みなぎ》らせているのも、古衣の襞《ひだ》のように、スレスレに切れたり、ボロボロに崩れたりしているのも、この石だ、それを針線《はりがね》のように、偃松が幾箇処も縫っている。
 急峻な登りを行く、雲は赤石山を包み隠して、西南にその連嶺の西河内岳の一角を現わした、さすがに富士山のみは、深くまつわる山を踏み踰《こ》
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