け》下野《しもつけ》の連山は、雲を溶かして、そのまま刷毛《はけ》で塗ったのではないかとおもうような、紺青色をして、その中にも赤城山と、榛名山が、地蔵岳と駒ヶ岳の間に、小さく潜んでいた、その最右端に日光連山、左の方に越後の連山がぼんやりとしていて、先刻《さっき》吹き寄せられた雲の名残か知らん、氷のようなのが、幾片となく、その辺の頭をふわりと漂っている、午《ひる》を過ぎたが、濃い透明の空は、硝子《ガラス》で張り詰めたようだ、黄色の日光が、黄花石楠花を蒸して、甘酸ッぱいような、鼻神経《びしんけい》をそそるような匂いとも色ともつかないのが、眼から鼻へと抜ける、頭がボーッとする、これでも踏む土の一部分だろうかと思うようだ、残雪は幾筋となく、壁間を放射して、緑の森林の中へ髪の毛を分けるように、筋目をつけて落ちている、ただ北アルプスの大山脈は、雲に閉じられてしまって、いつまで経《た》っても出て来そうにもない。
 金剛杖が石にカチリと当る、金属性の微かな短い音がしてコロコロと絶壁の下に転げ落ちる、どこを見ても絶壁! 墜石!
 三角測量標の直下には、誰かが前に土を均《な》らした痕のある、野宮地には誂《あつら》え向きな、三間位な平地が出来ている、黄花石楠花、小岩鏡、チングルマ、岩梅などが、疎らに生えている、位置は東を向いて、富士山と対している、南へ向いた断崖には、数条の残雪があるから、溶かして水を獲ることが出来る、時間は猶《まだ》早いが、これからまた峻しい山稜つづきで、適当な野営地が見つからぬかも知れないから、今夜はここで寝ることにした。
 例の天幕《テント》作りに取りかかる、古生層地は白峰までつづき、鳳凰地蔵一脈の間で、深谷にフツリと切れているのが、よく見える、人夫たちは雷鳥三羽を捕獲した、みんなして二羽を醤油飯に、一羽を焼いて喰った。
 霧がまた少し来た、夜になると、甲府市の電燈が黄いろの珠のように、混沌の底から、ボーッと見えた、先刻の汽船といい、この電燈といい、人間に遇わずに、山から山を伝わって、野獣のような生活をつづけていた人々の胸をおどらせた。
 夜も深くなった、焚火がとろとろと消えかかったとき、風が吹いて天幕の油紙が巻くられた、その隙間《すきま》から潜《もぐ》り込んだ風で、焔がパッと燃え上って光ったときは、寐込んだ油断に身体《からだ》に火がついたかと思って、一同夢うつつに駭《おどろ》いて立ち上った、霧がいつの間にか深くなっていた、油紙は雨に遇ったように湿めっている、冷《ひ》やりと手に触れたので眼が醒める。

    山の肌(間の岳の雪田に到る)

 朝起きて見ると、霧がまだ深い、西の方がまだしも霽《は》れていて、うすくはあるが、明る味がさす、東天の山には、霧が立て罩《こ》めて、一行はこの方面に盲目になった、日は霧の中をいつの間にか昇っている、冷たい白い月のように、ぼんやりとして、錫《すず》色の円い輪が、空の中ほどを彷徨《さまよ》っている、輪の周囲《まわり》は、ただ混沌として一点の光輝も放たない、霧の底には、平原がある、平原の面《プレーン》は皸《ひび》が割れたようになって、銀白の川が、閃めいている、甲府平原は、深い水の中の藻のようにかすんで、蒼く揺《ゆら》めいているばかりだ。
 この連日、峰から峰を伝わっているので、水がないから、顔も洗われない、焚火で髭《ひげ》を焼いたり、その焚火の煤煙や、偃松の脂《やに》で、手も頬も黒くなったり、誰を見ても、化かされたような顔をしている、谷へ下りたい、早く谷へ下りて、自由に奔放する水音が聞えたら、まあどんなに愉快だろう――谷川の流れる末に、巣くう人里などは、考えるさえ、まだ遠いのである。
 二等三角点に添って、西へと向き、見上げるような、岩の障壁を攀《よ》じると、急に屏風が失くなったようになって、北の方から、待ち構えていた冷たい風が吹きつけて来る、強い風ではないけれど、遠くは北の方、飛騨山脈や、近くは西の方木曾山脈の山々の、雪や氷の砥石《といし》に、風の歯は砥《と》がれて、鋭くなり、冷たさがいや増して、霧を追いまくり、かつ追いかけて、我らの頬に噛みつくのである、我らは吹き込む風の中心になったようで、その冷たさと、痛さとに慄《ふる》えながらも、山稜《リッジ》を伝わって行く。岩は鋼鉄のように硬くなりながらも、イワベンケイ、ミヤマダイコンソウ、ムカゴトラノオなど、黄紫のやさしい花を、点々とその窪洞《うろ》に填《う》めながら、ギザギザに尖っている輪廓を、無数に空に投げ掛けている。
 西へ西へと、伝わって、一山超えると、また一山が、鋭い鑿《のみ》で穿《く》りぬいたように、大曲りに蜿《う》ねった山稜《リッジ》を、連鎖にして、その果に突立っている、仰ぐと、西の天は雲が三万尺も高く、堆《うずたか》くなって、その隙間に
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