鮮やかに光っている。
 槍ヶ岳以北は、見えなかったが、木曾駒ヶ岳は、雪の荒縞を着ながらも、その膚の碧は、透き通るように柔らかだ、恵那《えな》山もその脈の南に当って、雄大に聳《そび》えている。
 もう「こっちのものだ」という、征服者の思いが、人々の胸に湧く、今までのように、悄気《しょげ》た顔はどこにもない、油紙は人夫どもに処置させて、先刻|遁《に》げ込んだばかりの、白河内岳の頂上に立って、四方を見廻した、南の方、直ぐ傍近く間の岳(赤石山脈)と、悪沢《わるさわ》岳が峻《けわ》しく聳えて、赤石山がその背後から、顔を出している――ここから見ると、悪沢岳の方が、近いだけに、赤石山より高くはないかと思われた、甲府平原は、釜無笛吹二川の合流するところまでよく見える、直ぐ脚下には、岩壁多くの針葉樹を帯びて、山の「ツル」(脈)が、古生層岩山の特色を見せて、低く幾筋も放射している、脈と脈との間には、谷川が幾筋となく流れている、手近いのが広河内、一と山越えてその先のが荒川、最も遠いのが能呂《のろ》川に当るのである、鮎差《あゆさし》峠の頭もちょっと見えた。
 峰から峰の偃松は、暴風雨のあとの海原のように凪《な》いで、けろりと静まりかえっている、谷底の風の呻吟《しんぎん》は、山の上が静粛になるだけ、それだけ、一層|凄《すさ》まじく高く響いて来る。

    汽船・電燈(農鳥山に登る記)

 白河内岳から西北へと向いて、小さな峰の塊を、二つばかり越えた、西の方面、木曾山脈が、手に取るように近く見える、三ツ目の峰の下の、窪んだところに、残雪が半ば氷っていた、岩高蘭《がんこうらん》や岩梅がその界隈《かいわい》に多い、踏む足がふっくりと、今の雨でジワジワ柔い草の床に吸い取られる、この辺から眼の前の農鳥山を仰ぐと、残雪が白い襷《たすき》をかけて綾を取っている、荒川の峡谷を脚の下に瞰《み》ながら偃松《はいまつ》の石原を行く、人夫たちは遥に後《おく》れて、私たち四人が先鋒になって登る。
 農鳥山は大約《おおよそ》三峰に岐《わか》れているようだ、手近を私たちは――後の話だが――仮に南農鳥《みなみのうとり》と名づけた、雪が二塊ばかり、胸に光っている、近づくほど、雪の幅が成長して大きくなる、雪の側はいわゆる御花畑で、四《よ》ツ葉《ば》塩釜《しおがま》、白山一華《はくさんいちげ》、小岩鏡《こいわかがみ》などが多い。
 この大残雪を踏んで、南農鳥の傾斜を登ること半ば頃から、大なる富士山は、裾野から沙《すな》を盛り上げたように高く、雪が粉を吹いたように細い筋を入れている、その下に山中湖、それから河口湖が半分喰い取られたようになって、山蔭の本栖《もとす》湖の一部と、離れ離れに静かな水を伏せている、函根、御阪、早川連嶺などが、今の雨ですっきりと洗われて、鮮やかな緑※[#「靜のへん+定」、第4水準2−91−94]《りょくてん》色をしている、愛鷹《あしたか》を超えて伊豆半島の天城山が、根のない霞のように、ホンノリと浮いて、それよりも嬉しかったのは、駿河湾に黒煙をかすかに一筋二筋残して走っている汽船!
 黄花石楠花《きばなしゃくなげ》が、岩角の間に小さくしがみついて咲いている、その間を踏んで、登れば、千枚沢岳と悪沢岳の間に、赤石山が吊鐘《つりがね》を伏せたように円く立っている、支脈伝いに背面を見た時には、壮大だと思った白河内岳も、ここから見ると、可愛そうなほど、低くなって、下に踞《うず》くまってしまった。
 南農鳥の上に出た、足の下から大障壁をめぐらして、近く農鳥山の三角測量標を見たときは嬉しかった、しかし登り著《つ》くと南農鳥の最高点は、まだここではなく、五、六町も先にあることが解った、これから截《き》っ立った、ギザギザ尖った石が、堤防のように自然に築き上げられているところを伝わるのだ、偃松と、黄花石楠花の間を抜き足をして、やっと南農鳥山の二等三角測量標の下に来た、おそらく参謀本部陸地測量部員が、野営をした跡ではあるまいかと思われる、ちょっとした平地へ出た。
 ここから見ると、石の剣《つるぎ》の大嶺が、半円形にえぐ[#「えぐ」に傍点]られて、蜿蜒《えんえん》として我が日本南アルプスの大王、北岳《きただけ》に肉迫している、その北岳は、大岩塊が三個ばかりくッついて、その中の二塊は、楕円形をしているが、一塊は恐ろしく尖《とが》っている、そうして四辺《あたり》に山もないように、この全体が折烏帽子《おりえぼし》形に切ッ立って、壁下からは低い支脈が、東の谷の方へと走っている、能呂《のろ》川があの下から出るのだと、追及して来た猟師が、そう言ったが、実際私たちは、川などはどうでもよかった。
 もう山という山が、みんな顔を出して来た、地蔵岳鳳凰山を隔てて、八ヶ岳の火山彙《かざんい》が見える、上野《こうず
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