ながら、喘《あえ》ぎ喘ぎ登る、霧は大風に連れ、肉を截《き》り削《そ》ぐばかりの冷たさで、ヒューッと音をさせて、耳朶を掠めた、田村氏の帽子は、掠奪《ひった》くられたように、向うの谷へ抛げ出された、製造場の烟突からでも出そうな、どす黒い綿のような雲が頭から二、三尺の上を呻《うな》って飛び交う。花が光を、川は音楽を失った、ソラッ暴雨《しけ》だッ、というときには、眼も口も開けられないほどの大雨が、脳天からかけて、人間を石角に縫いつけた、そうして細引のような太いので、人間を毬《まり》のようにかがる、片足を擡《もた》げれば、擡げた弱点から、足を浚《さら》って虚空へ舞い上げそうな風が、西から吹きつける、誰だって血の気の失せない人はなかった、どこへ遁《に》げようとか、どこが安全だとかいうような余裕が、この際誰にもなかったので、我がちに岳の下の偃松の穴へ――野営としてきわめて不適当ではあったが――一人ずつ飛びこんで、偃松の根許へ這い込んだ、この刹那《せつな》は、私の頭の中も、暴風雨の荒《すさ》むように不安であった、油紙の天幕を枝と枝との間に低く張って、四ツ足の人間を、この中に這わせた、寒さに手も凍《こご》えて、金剛杖さえ持つ力がなかった。
 焚火焚火、人々は手足の関節から、血の循環《めぐり》が一秒一秒止まったように、意識された、今凍えて行くのだということも解る、早くどうかしろと神経が知らせてくれる、誰の顔を見ても、蝋のように白い、マッチ箱は燐寸《マッチ》一本さえ、烟を立てることなしに、空《から》になったほど、何もかも、ビショ濡れになった。
 だが晃平一人はウンと踏ん張った、
 心配するなッ、犢鼻褌《ふんどし》を焚《や》いたッても、お前方を殺すことじゃあねえぞ。
と、その赤銅色の逞ましい顔を、一行に向けて爛とした目から、電が走ったときは、一行に大丈夫という観念を与えた、彼は鉈《なた》で杖を裂いた、杖の心《しん》まで雨は透っていないから、細い粗朶《そだ》が忽ち出来る、燻《いぶ》してどうかこうか火が点《つ》いた、そうすると白烟が低い天幕の中を、圧されて出る途がないので、地を這いずった、高頭君は息を窒《つ》められて、ヒョロヒョロと仆《たお》れた、避けようとした私はジリッと焦げ臭く髯《ひげ》を焼かれた、堪《た》まらなくなって天幕の外へ首を出すと、偃松の上は、吹雨《しぶき》の柱が、烟のように白く立っている、また油紙の下へ引ッ込んでしまう、倉橋君は昨夜睡られなかったので、よくよく眠かったと見え、この騒ぎの中にもグッスリ寝込んでいる、白花の石楠花が、この生体のない人の頬に匂っている。
 耳を澄まして、谷間に吹き荒《すさ》ぶ風の声を聞くと、その怖ろしさといったらない、初めは雷とばかり思っていた、あまり雷にしては間断なく鳴るから、不審に思って聞くと、「大井川の七日荒れ」だという、その「荒れ」が、今の風雨で初まったのだという、谷の角から谷の角へと屈折し、反響して、空気の大顫動《だいせんどう》が初まったのである、この山はいつ頃出来たのであろう、そうして何百万年もこうして寂として、いたのであろう、それが十年に一度、五年に一度、人間が入って来ると、谷間の底に潜んでいる風が、鎖を繋がれながらも、それからそれへと哮《たけ》り狂って、のた打ち廻り、重い足枷《あしかせ》を引き擦り引き擦り、大叫喚をしているのであろう、油紙の天幕の下は、朽木の体内のように脆くて、このまま人間は、生きながら屍《しかばね》となるのではあるまいかと、思われた。
 この暴風雨がいつまでつづくか解らぬ、それよりも、差し当りこんなところに、今夜野宿が出来るか、否かが疑問である、思い切って谷へ下りようか、谷へ下りれば、この旅行の中止を意味することになる、一行は思い悩んで決し兼ねた……何だか筋骨を抜かれたように、気落がして、私も眼が重くなった。
 高頭君であったか、誰であったか、不意に消魂《けたた》ましく、日本晴れだぞ、痛快痛快と、触れ廻るように叫んだ声におどろかされて、刎《は》ね起きると、雨はいつの間にやら霽《は》れ上り、西の方の空が一点の痣《あざ》をも残さず、拭いて取ったように、透明に奥深く冴えわたっている、鼻ッ先には農鳥《のうとり》山と間《あい》の岳《たけ》(白峰山脈)が、近く立っている、こんな大きな山々が、今まではどこに秘んでいたのだろう、天から降ったのかと思うように、出たのである、間の岳は頭がちょっと出ている。農鳥山の赭《あか》ッちゃけた壁には、白雪がペンキでも塗ったように、べッたりと光って輝いている。
 西の方には木曾御嶽が、緩斜の裾を引いて、腰以下を雲の波で洗わせている、乗鞍岳は、純藍色に冴えかえり、その白銀の筋は、たった今落ちたばかりの、新雪ででもあるかのように、釉薬《つやぐすり》をかけた色をして、
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