大多数から、少量をつまんで、年代また年代と、築き上げて作製した、百万年の壁画が、落ちた。
 寂しさは、人の心の空虚を占領した。
 鼠色の凶兆《しらせ》はあった、それから間もなく、疾風豪雨になって、一行は、九死一生の惨《みじ》めな目に遇《あ》わされた。

    石・苔・偃松(白河内岳に登る記)

 野営を撤して、濡れそうなものは油紙で包み、岩伝いに北を向いて、大籠山《おおかごやま》と後で名をつけた一峰に達した、三等三角測量標が立っている、霧が吹雨《しぶき》を浴びせかけて、顔向けも出来なかったが、白峰山脈で、初めての三角標に触れたのだから、ちょっと去りにくい気がした。
 それから北西に向って、一つ支峰を越えると、鉢形に窪んだところがあって、白山一華《はくさんいちげ》の白と、信濃金梅《しなのきんばい》の黄とが、多く咲いている、チングルマの小さい白花、赤紫の女宝千鳥《にょほうちどり》などで、小さい御花畑を作っている、霧の切れ目に、白河内岳が眼の前に、ぼんやり現われた、足許は偃松《はいまつ》の大蜿《おおう》ねりで、雲は方々の谷から、しきりに立ち登る、太古の雲が、初めて山の肌に触れたのは、この辺からではあるまいか、そうして執念深く、今もなおあの山に、つき纏《まと》って、谷の住み家を去らずにいるのではあるまいか……前々夜泊まった広河内の谷が、乾からびたように見える、その附近の黒い森林は、一寸位ずつ這い上って来るようで、雲の揺籃《クレードル》のように、水球をすさまじい勢いで吐き出す。
 西に向いて、また一峰を超え、やや下ってまた北に向って上る、霧の中で目標にする山もないから、手に磁石を放さない、何でも北へ向けばいいのだ、北へ、北へと歩む。
 ふと東北に地蔵鳳凰二山が見えた、鳳凰山の赭《あか》っちゃけた膚に、蒼黯な偃松が、平ッたくなって、くッついている、うしろには駒ヶ岳が、蒼醒《あおざ》めた顔をして覗《のぞ》いている、前には白峰本岳から連続するらしい二枚の連壁が、低いながらも遮っている、今通過した大籠山は、駱駝《らくだ》形をして、三角測量標が、霧の波に冠されながらも、その底から頂へと突き抜いて、難破船の檣《ほばしら》のように出ている、見る見るうちに霧に喰《は》み取られて、半分位持って行かれてしまったかと思ったが、また繋ぎ合わされて立っている、西に間《あい》の岳《たけ》(赤石山脈)が立ち、東に富士山が、二筋ばかりの白い雪を放射して、それが泥黒い雲を通過する光線に翳されて、何だか赤く銹《さ》びた鉄のように見える、富士山の附近は、御阪山脈や、天守山脈だけを、小島のように残して、氷に鉋《かんな》をかけたような雲が、ボロボロ転がっている、山という山の背景は、灰色で一面に塗り潰されている。
 北方白峰の本嶺は、一切霧で秘められている、その一切を秘められた北へ北へと、私たちは見えない手に、グイグイ引っ張られて、否でも応でも行かなければならないのだ。
 北西の一峰を踰《こ》えたことを記憶している、そこに何があったかと言えば、白花の石楠花《しゃくなげ》があったことだけが答えられる。
 乱石で埋まった一峰を越したことも、憶い出される、雪が氷っていたことだけが、眼に泛《うか》ぶ。
 それほど霧で眼界を窄《せば》められていた、それだけまた神経が鋭く尖っていた、自分たちから一間ばかり、先へ離れて、雷鳥がちょこちょこ歩いて行く、こっちで停まれば向うでも停まる、歩けば先へ立って行く、冥府から出迎いにでも来た悪鳥のように、この鳥の姿が消えるとき、自分たちの運命も終焉《しゅうえん》を告げるように。
 雄大なる白河内岳が、円く眼の前にボーッと立つ、この山を中心として、雲の大暈《おおがさ》が、幻のように圏《わ》を描いてひろがる、日輪の輪廓がひろがって黄色い葵の花のように、廻転するかと思われた。
 風が錐《きり》のように痛い、白河内岳の麓で、焚火をしていると、おくれがちの人夫も、あとから追いついて来た、その中の一人は、雷鳥を捉えて来た、少しは休んだが、風と霧と冷たいのと痛いので、落ちつく空はない、とかくに気の重い人夫どもを促して、登りかける、実を言うと、どの方面へ向いて、何処を登っているのだか、もう解らない、人夫もみんな初めての途で、茫然《ぼんやり》しているばかりだ、ともかく眼の前の大山を登った、石片が縦横に抛《な》げ出されている、しかし石と石とは、漆喰《しっくい》にでも粘《く》ッつけられたようで動かない、いずれも苔がべッたり覆せてある、太古ながらの石の一片は、苔に包まれた古都の断礎でも見るように、続々と繋《つな》がって、爪先を仰ぐばかりに中天に高く斜線を引いている――もう白河内岳の上にかかっているのだ、この饅頭形の石山は、北アルプスの大天井《おてんしょう》岳にどこか似ていると思い
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