白峰山脈縦断記
小島烏水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白峰《しらね》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)七月下旬|高頭式《たかとうしょく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]
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緒言
前年雨のために失敗した白峰《しらね》山登りを、再びするために、今年(四十一年)は七月下旬|高頭式《たかとうしょく》、田村政七両氏と共に鰍沢《かじかざわ》へ入った、宿屋は粉屋であった、夕飯の終るころ、向い合った室から、一人の青年が入って来た、私たちが、先刻から頻《しきり》に白峰、白峰と話すのを聞いて、もしやそれかと思って、宿帳で、姓名を見てそれと知った、というので同行を申し込まれたのである、大阪高等工業学校の生徒、倉橋藤次郎氏である、一人でも同行者を増した心強さは、言うまでもない。
翌朝例の通り、人夫を※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]《やと》って、西山峠を越えた、妙法寺の裏から、去年とは違った道――北海とも、柳川《やかわ》通りともいうそうだ――を登った、そうしてデッチョウの茶屋の前で、去年の登り道と一ツに合った。
このたびは霧がなかった、紫の花咲くクカイ草、蘭に似た黄色の花を垂れるミヤマオダマキが、肉皮脱落して白く立っている樅《もみ》の木を、遠く見て、路傍にしなやかに俯向《うつむ》いている、熊笹が路には多い。
四方の切れた谷を隔てて、近くに古生層の源氏山を見る、去年は、どうしてこの山が、気が注《つ》かなかったろうと思う。
峠が上り下りして、森らしくなる、杜鵑《ほととぎす》がしきりに啼く、湯治の客が、運んだ飜《こ》ぼれ種子からであろうが、栂《つが》の大木の下に、菜の花が、いじけながらも、黄色に二株ばかり咲いていた、時は七月末、二千|米突《メートル》の峠、針葉樹林の蔭で!
苔一面の幹を見せて、森の樹の蔭には、蘭が生え、シシウド、白山|女郎花《おみなえし》、衣笠草などが見える、しかし存外、平凡な峠だ、樹も思ったより小さいし、谷は至って浅い、去年の霧の中に炙《あぶ》り出されたものは、梢一本さえ、どこに深く秘されたのだろう、夢から醒《さ》めたようだ、これじゃあ、森林などというほどではなかった、霧の嘘つき! と嘲った。
温泉はやはり、新湯に泊まった、去年(四十年)秋、笹子峠のトンネルを崩壊し、石和《いさわ》の町を白沙の巷《ちまた》に化して、多くの人死を生じさせた洪水は、この山奥に入ると、いかばかりひどく荒れたかということが解る。温泉附近の路が酷《ひど》くくずれている、宿の前で嗽《うが》いをした筧《かけひ》の水などは、埋没してしまっている。
例の晃平を主として、四人の猟師を雇って出発した。
早川から黒河内《くろこうち》、榛《はん》の河原、それから白剥《しらはぎ》山と、前年の路を辿《たど》ったときに、洪水からの荒廃は一層甚だしかった、まるで変っている、川筋はもとより、山腹の道などは、捩《ね》じり切って、棄てたように谷に落ちている、大村晃平、同富基、中村宗義などいう、土地で名うての猟師を連れたのだが、どのくらい路を損したり、無益に上下したかは解らぬ。
白剥山の入口などは、解らなくて、森の中を一行が、離れ離れに迷うばかり、滝上《たきのぼ》りまでもやった、一時は絶望に近かった、しかし山腹に辿りついてからは、去年の路が、微《かす》かに見分けが出来た、頂は存外変りがなかった。
そうして一行は東俣谷の、オリットの小舎《こや》に着いた、私が恐い、怖ろしい念《おも》いをしながらも、もう一遍後髪を引かれて見たいとおもった小舎の前の深潭《しんたん》は、浅瀬に変って、水の色も、いやに白っちゃけてしまった。
ここを出立点として、改めて稿を次ぐ。
川楊(大井川の上流)
前夜は、東俣の谷へ下りて、去年と同じくオリットの小舎に野宿をした。
今朝は、四時半に眼がさめる。禽《とり》の、朗かに囀《さえ》ずる声は、峰から峰へと火がつくようである。寝泊りした小舎の頭の、白花の咲く、ノリウツギの間からも起る。サルオガセの垂れる針葉樹の間からも、同じように起る。この声の行くところ、水と、石と、樹と、調子を合せて、谷間の客を揺り起す。間《あい》の岳《たけ》(赤石山脈)の支峰だと晃平のいう蝙蝠《こうもり》岳は、西の空に聳《そび》えて、朝起きの頭へ、ずしりと重石を圧えつける。
小舎の前の渓水に嗽《くちすす》ぐ。水は、南へと流れる。当面の小山を隔てて、向《むかい》は、西俣の谷になる。私たちの、これから溯《さかのぼ》ろうという、東俣の谷と、
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