西俣の谷とは、下流三里のところで一つになり、初めて田代川――馬子唄で名の高い、海道一の大井川の上流――となって、西南の方向へと、強い傾斜を走って行くのである。
晃平は、前の川へ釣綸《つりいと》を垂れて、岩魚《いわな》一尾を得た。これをぼつぼつ切にして、麩《ふ》と一緒に、味噌汁にして、朝飯を済す。それから、昼弁当の結飯《むすび》をこしらえ、火に翳《かざ》して、うす焦げにして置いて、小舎の傍から※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》って来た、一柄五葉の矢車草の濶葉に一つずつ包む。何という寛濶な衣であろう、それをまた……おそらく、谷初まって以来であろう、燃えるような、紫の風呂敷に包ませて、出かける。
谷といっても、旱《ひでり》つづきの時は、水が涸《か》れて、洲が露《あらわ》れるし、冬になれば、半分ほども水が落ちるというのに、今までの雨つづきで、水は、嵩《かさ》にかかって、蜥蜴《とかげ》色に光りながら、迅《はや》り切って流れている。膚《きめ》の細《こまか》い、黄《きいろ》い石や、黒い石の上を辷《すべ》ると、思いなしか、沈んだ、冴えた声をして、ついと通る。この谷を一回、大きい徒渉をやる、つづいて二回の小徒渉をやる。深いところは、稀に膝以上まで水が来るが、頭の平ったい、太鼓の胴のような大岩や、頭だけ、微《かすか》に水面に露している石が、入り乱れて立ったり、座ったりしているから、大概は、石伝いで飛ばされる。そうして、水はこれらの石の間を潜り、上を辷って蜿《う》ねる。細い皺《しわ》が網を打ったようにひろがる。さざ波は綱の目のように、水面に織られる。その大網の尖端は、紐《ひも》のように太く揺れて、アール・ヌーボー式の図案に見るような、印象の強い輪廓を作って、幾筋となく繋がっては、環《わ》を作る。やがて柔らかな大曲りをして消える。痕《あと》を残さない、濃さと淡さの碧が、谷から舞い上る霧のほむらに、ぬらりと光る。さわると、鱗《うろこ》でも生えていそうな水だ。いかにも足が冷たい。膝がざぶりと入った……その中に、尻まで深くなる。ここを「捩《ね》じれ窪《くぼ》」というそうだ。霧は、頻に、頭の上を飛ぶ。空気も、その重さに堪えないで、雨を、パラパラ落して来る。
次第に、谷が蹙《せま》って来る、水は、大石の下に渦を巻く。深いところは紫を浅いところは藍を流している。白い沫《あわ》が、その上を回転して、両崖の森林を振りかえりながら、何か、禍《わざわい》の身に迫るのを、一刻も早く遁《に》げたいというように、後から後から、押し合って、飛んで行く。潭石の下には、大《おおき》さ針の如くなる魚が、全身、透き通るように、青く染って、ぴったりと、水底に沈んでいる。水の面には、生の動揺といった象《かたち》が見えている中に、これはまた青嵐も吹かば吹け、碧瑠璃《あおるり》のさざれ石の間に介《はさ》まって、黙《だ》んまりとした|死の静粛《デッド・カアムネス》! それでいて、眠っているのではない、どこか冴え切って、鋭く物に迫るところがある。鰭《ひれ》一つ動かすときは、おそらく、水紋が一つ描かれ、水楊《みずやなぎ》の葉が一枚散り、谷の中には大入道のような雲がぬうっと立ち昇って、私たちを包んで、白くしてしまうときであろう。私は、この深谷の幾千本針の針葉樹よりも、はた幾|万斛《ばんこく》の水よりも、一寸の魚が、谷の感情を支配していないとは言えなかった。
潭《ふち》が深くて、渉《わた》れないから、崖に攣《よ》じ上る。矢車草、車百合、ドウダンなどが、栂《つが》や白樺の、疎《まば》らな木立の下に、もやもやと茂っている。川床に突出する森の下蔭は、湿りっ気が、最も多いかして、蘇苔が、奇麗《きれい》に布《し》かれている。気紛れに、そこへ根を卸《おろ》したような五葉松は、仰向けに川の方へ身を反らして、水と頷《うな》ずき合って、何か合図をしている。崖下の黯《くろ》い水も、何か喚《わめ》きながら、高股になって、石を跨《また》ぎ、抜き足して駈けている。崖の端には、車百合の赤い花が、ひときわ明るく目立つ。この花を、山家の少女の衣模様に染めたらば、などと思いながら、森を出て、河原に下り、太い逞《たくま》しい樹の蔭に立った。
仰向いて見ると、その樹は、川楊である。章魚《たこ》の足のような根を、川砂の上に露していながらも、倒れずにいる。シバヤナギ、タチヤナギ、いろいろな名があろう、幹の皮は、皺だらけで、永年洗い落したことのない垢……青苔が、厚くこびり粘《つ》いている。夜になると、この筋の根に、一本一本神経が入って大手を振って、のさり、のさり、谷の中を歩きそうだ。川に沿《つ》いて、両側に森がある。森には、樅《もみ》や樺の類が茂っている。しかし、川の中まで足を踏み入れて、人間を嗅ぎ出して、突き倒し兼
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