る、杭に纜《もや》われた小舟が、洪水に飜弄されるように、油紙の屋根が、ペラペラ動く。
 何時だか、時計を出すのも臆劫《おっくう》だ、朝だか夜中だか解らない。
 尻に敷いた褥《しとね》は、可愛らしい高山植物で、チングルマの小さい白花、アカノツカサクラの赤い花などが、絨氈の斑紋になって、浮き上る、焚火の影に、鮮やかな織目を見せる。
 早く日の目が見たい。
 早く穴の中から這い出したい。
 同じ思いが、仲間の顔色に読まれる、飯を炊くのに、未だ時間がある、思い切って天幕から一、二間歩き出した、岩を二ツ三ツ飛び越えて、次第に爪先が上る、無辺無限の単調《モノトニイ》の線が、どこへ繋《つな》がって、どこへ懸っているのか、解らない……やはりあの空線の一つを辿っている。
 天幕が霧の中に、小さくぼんやり見える、四ツ柱に、油紙がぺらぺらとして、田舎の卵塔場《らんとうば》のようだ、今まで、あそこに寝ていたのか知ら……この霧と雨の中を、たった紙一枚の下に……火光がパッとさす、霧の水球《みずたま》が、美しい紫陽花《あじさい》色に輝いたかとおもうと、消えた。
 稜角の端まで這い出して、小さい阜《おか》――古代の動物の骨のようにゴロゴロ転がっている石の堆積――の上に立った、石はビッショリと濡れて、草鞋が辷る。
 朝明りか知らん大きな水平のひろごりが、足許に延されている、白い柔毛《にこげ》のような雲が、波の連続するように――したが一つの波も動くとは見えない――凸凹《たかひく》を作って、変化のある海が、水平線の無限に入っている、しかし正面は、霧が斜に脈を引いて、切れそうにもない、その間から彎弓《ひきゆみ》のような線が、幾筋となく泳いで出た、ハッキリすると土堤ほどの大きさになった、山である、関東山脈の一端と、早川連嶺の一角とだけが、おぼろに見えたのである、山と山との間は、みんな空席で、濃厚な水蒸気が、その間に屯ろしている、山という山の各自は、厳しく守られている、生物は守られていない。
 雲は凍っているのか、吐息を凝らしているのか、巨大の容積がしずまり返っている。
 その深さが何万尺あるか測られない、この中に何か潜力的《ポーテンシアル》な、巨大な物が潜んでいる、そうして生物を圧迫する――化性《けしょう》の蝙蝠《かわほり》でも舞い出そうだ。
 あの底には、もしくは外には、都会がある、群集がある、燈火《ともしび》、音曲、寄席、芝居がある、群集と喧噪の圧迫から遁《に》げて、天涯の一角に立ったときに、孤独と静粛の圧迫!
 少し明る味がさした、明る味のさした方角を東に定めている、その東の空が、横さまに白く透いた、奥の奥の空である、渋昏《しぶくら》く濁った雲の海の面《プレーン》が、動揺混乱するけはいが見える。
 外套をふわりと脱いだように、眼の前の霧の大かたまりが、音もなく裂けて、谷へ落ちた。
 富士山が、すッきりと立った。
 名も歴史もない甲州アルプスに、対面して、零落《れいらく》の壮大、そのものが、この万年の墳墓を中心にして今虚空を奔《はし》る。
 空々寂々の境で、山という山の気分が、富士山に向いて、集中して来る、谷から幾筋とない雲が、藍の腐ったような塊になって、立ち昇る、富士山はこの雲と重なって、心もち西へ西へと延びて来るようだ、蝕《むしく》った雲の淵の深さが、何十尺かの穴となって、口が明く。
 頭がようやく冴えて来た、足許の岩では、偃松が近くは緑に、遠くは黯《くら》くなって、蜿《う》ねっている、天外絶域の、荒れはてた瘠土《やせつち》にまで、漂って来た、緑の垂直的終点を、私は今踏んでいるのだ。
 空の気味の悪いほど、奥まで隙《す》いて光っているだけに、富士山は繻子《しゅす》でも衣《き》たように、厚ぼったくふやけ[#「ふやけ」に傍点]ている、いつもの、洗われたように浄い姿ではない、重々しい、鼠ッぽい色といったらない。
 いつの間にか、仲間が一人来る、二人|蹤《つ》いて来る、岩の上には、黒いピリオドが、一点、二点、三点――視線は一様に、鼠色のそれに向う。
 富士かね。
 富士だよ。
 あの山は眠ったことがないから、醒めたこともないというような、澄した顔つきをしている、私たちとの距離は、いよいよ遠くなった、その間を煙のように、眼先を霧が立って、右へ往きそうになったり、左へ思い出して、転がったりしている。
 厚味の雲の奥で、日が茜《あかね》さしたのか、東の空が一面に古代紫のように燻《くす》んだ色になった……富士の鼠色は爛《ただ》れた……淡赭色の光輝を帯びたが、ほんの瞬く間でもとの沈欝に返って、ひッそりと静まった。
 フツ、フツと、柔くて、しかも鋭敏な音を立てて霧――雨が来た、偃松も、岩も、山も、片ッ端から白い紙になって、虚空に舞い上る。
 富士も一息に吹き消された、土地という最
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