ヤマウスユキソウ、チングルマなどがあったが、風と霧と雨の中で、一々眼に止めていられない。
 それでも石の河原のような小隆起を、二タ山ほど盲越えに越えた、高頭君はウラジロキンバイが多いと、指して驚いている、この高山植物は、白馬岳や八ヶ岳に産したものだが、今濫採されて、稀少になったものだそうで、今のところ、ここが最も豊饒《ほうじょう》な産地であろうと語られた。
 未だ時間はあるが、もうこの天候では泊まるより外はないことになった、路側の窪んだところに、猟師でも焚火したと見え、偃松の榾《ほだ》が、半分焦げて捨ててあった、その近傍の窪地を選んで、偃松と偃松との間に、油紙を掛け渡し、夜営地を張り、即刻焚火をした、手でも、足でも、寒気に凍えて、殆んど血が通ってるとは思われない、晃平たち案内者は、さすがに甲斐甲斐しい、蓆《むしろ》に雪をどっさり包んで、担い梯子でしょって来て、それから薬鑵《やかん》の中で、湯を作る、茶を煮る、汁粉を作る、雪の臭いを消してうまかった、晃平は雨の小止みを待って、雷鳥を銃殺して、羽毛を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》って、肉を料理する。
 油紙の天幕の中に、私たちの金剛杖を、三本組み合せ、それへ縄を下げて、鍋を吊り、偃松の枝や根を薪材にして、煮炊《にたき》をするのだ、山頂の風雨とはいいながら、焚火さえあれば、先ず生命に別条がないということを知っているから、連中懸命になって、薪材を山のように搬《はこ》んで、火のそばへ盛り上げたものだ、それでも凍えてはならないと、有りったけの衣類を出して衣《き》た、困ったことには雷鳴がいかにも強い、頭上五、六尺のところを、転がって行くようで、神経がピリピリするから、鉈でも、眼鏡でも、鉄物《かなもの》は、凡《す》べて包むことにした、雨は小止みになったり、また大降りになったりする、大降りのときは、油紙の天幕の中央が、天水桶のように深くなって、U字形に雨水の重味で垂れ下る、今にも底を突き抜きそうであるから、連中底の下から手で押し上げると、雨水は四隅から迸《ほとばし》って、寝ているところへ流れ込む、空鍋を宛てがって承《う》けたり、茶碗で汲みこぼしたり、騒ぎが大きい。
 面白そうに笑って作業をしながらも、天外の漂流者という孤独の感が胸に迫る。

    鼠色の印象(暴風雨前の富士山及び白峰山脈)

 汽車の中は、蒸されるように混んだ、肘《ひじ》と肘と触れ、背と背と合された人々が、駅ごとに二、三人ずつ減る、はてはバラバラになって、最後の停車場《ステーション》から、大きな、粗い圏《わ》を地平線に描いて散った、そうして思い思いの方向へと往《い》った。
 鳶《とび》のように、虚空へ分け入ったのは、私たちである、あれから五夜で、私たちは海抜八千尺ほどの、甲州アルプスへ来た、山の上には多年雪に氷に磨り減らされて、鑢《やすり》のように尖った岩が、岩とつづいて稜角《リッジ》がプラットホームのように長い、甲府平原から仰いだ、硬い角度の、空線《スカイライン》の、どれかの端を辿《たど》っているのだ、何万という、下で寄り集まった眼球がみんな私たちを仰向いているような気がする、その稜角の窪んだ穴の中に、頭を駢《なら》べて、横になったのが、私たち四人――人夫を合せて八人――偃松《はいまつ》の榾火《ほだび》に寒さを凌いで寝た。
 霧が夜徹《よどお》し深かった、焚火の光を怪しんで、夜中に兎が窺《うかが》い寄ったと、猟師は言ったが、私は寝ていて知らなかった、草鞋《わらじ》も解かないで、両足をとろとろ火に突っ込んで、寝ていたとき、小坊主がちょこちょこと歩んで来て、人の寝息を窺ったのを、微《ほの》かに知っている、眼を覚ますと、スーッと白い霧の中へと飛んで、羽ばたきの影が、焚火に映ったようだ。
 寒いので仲間が、入れ代りに眼をさます。猟師は、焼木杭《やけぼっくい》に烟管《キセル》をコツコツ叩きながら、
 今がた雷鳥が何羽も出来やした。
と話す。
 霧はフツ、フツと渦巻く、偃松に白く絡んで、火事場の烟でも立つように、虚空を迷っている、天幕《テント》の屋根の筋目から仰ぐと、暗灰色の虚空《そら》が壁のように狭くなって、鼻の先に突っ立っている、雨と知りながらも、手を天幕の外へ出すと、壁から浸染《にじ》み出る小雨に、五本の指が冷やりとする、眼がやっと醒《さ》める。
 ゆうべは月がちょっと冴えたのに……雨かなあ。
と仲間の一人が欠伸《あくび》をして言う。
 そのときは、富士山が、怖ろしく大きく見えたが、見ているうちに、細くなって莟《つぼ》んでしまった。
 ……いやな、霧だなあ。
と、私は嘆息する、天地の間には、風が吹くのでなければ、霧が流れるのだ、そのたびに、天幕の中へ、ザアと小粒の雨がそそぎ入る、柱代りの金剛杖が、キュッと呻
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