木のように、いじけて、それでも森厳として、太古ながらの座席を衛《まも》っている、そして片唾《かたず》を飲んだように、静まり返っている。
虚空の領分へ、人間が入ったときには、霧の使者が、先ず出迎えに来る、――先刻|※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《ささや》き合った、それだ、小雨のそば降るように来た、一行の中には偃松を見て、引き返すような男はいない、しかし素《も》と素《も》と、路でないところへ割り込んで来たのである、白檜の林はともあれ、偃松の犇々《ひしひし》と隙間のない海原へ入っては、往くことも戻ることも出来ない、晃平は、鉈《なた》で偃松を切ッ払い、切り落し、辛うじて路を作った、私は先登になった、偃松の大波に揺り上げられながら、岩のあるところを目懸けて、縋《すが》りつく、倉橋君も、それから少し後れて、高頭君と中村君とが、みんなこの蒼玄《あおぐろ》い波に、沈没したり、浮き上ったりして、つづいて泳いで来た、敢えて泳ぐという、足が土に着かないからだ。
岩の上には、浦島ツツジ、ツガサクラ、コケモモなどが、平ッたくしがみついている、私は岩角に身を倚《よ》せて、眼下遥かに低い谷底を見た、雲と霧と入り乱れて、フツ、フツと山上目がけて来る、その裂け目から谷を隔てて赤石山脈の大嶺、その間に、また谷を隔てて早川の連嶺が、幾析となく重なって、不安な光輝を放っている。
幾重の雲の中から、名の知れない山の顔が……肩から肩へと、腮《あご》を載せて、私を冷やかに見ている。
もう遁《に》がすことではないぞよ。
耳許で嘲笑《あざわら》いされたり、私語《ささや》かれるような気がする。
私は先んじて上った、幸いに偃松が薄くなった、それを破って、岩石が醜恠《しゅうかい》の面を擡《もた》げている、その岩石のつづく先は、霧で解らない、私は岩伝いに殆んど直線にグングン這い上った、霧はもう深林の中でのように、キュッというような、柔《や》さしい※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]き方ではない、ヒューと呻《うな》って、耳朶を掠《かす》めて行くのだ、無論荒ッぽい風に伴って来るのである、私はその風を避けて面を伏せようとして、岩の罅《か》け目に、高根薔薇《アルペン・ローズ》が、紅を潮《さ》して咲いているのを発見した、匂いがいかにも高い、私はこのときほど、高山植物の神秘に打たれたことはない、白花の石楠花は、潔いけれど、血の気の失せた老嬢のように、どこか冷たかった、今一と目、この花を見ると、もう堪まらなくなって、凍えても私は、この高根薔薇を胸に抱いて死にたいと思った、高山植物というものを、殆んど摘み取ったことのない私も、このときばかりは、――白峰赤石《しらねあかいし》、峰々に住ませたまう荒神たちも許させたまえ――一輪を衣裏《ポッケット》へと秘めた、そのときは霧中の彷徨《ほうこう》で、考える余裕もなかったことだが、文芸復興期《ルネッサンス》以後、伊太利《イタリー》唯一の天才と呼ばれた山岳画家ジョヴァンニ・セガンチーニが、夏の初めアルプス山の雪中で、莟《つぼ》める薔薇を発見して「|薔薇の葉《エ・ローズ・リーフ》」という名画を描いた、それは白い床の雪の中から髪の毛の柔かい、薔薇色の頬の愛らしい乙女が、顔を出して、涼しい眼をバッチリと瞬いている、背景《バック》は未だ寂寥な眠から醒《さ》めない、暗《やみ》の空に、復活の十字架が、遠くに小さく見える、象徴の匂いの饒《ゆた》かな作品である、あの高根薔薇は、私には永久に忘られない花の一ツである。
やっとこの山での最高点――と思う、霧で遠くの先は解らない――へ着いた、何だかこう俄に広い街道へでも出たような気がした、霧はフィューと虚空を截《き》って、岩石に突き当って、水沫を烈しく飛ばす、この水球《みずたま》はどこの谷から登って、どこの谷へ落ちるのか解らない、雷鳥だか山鳩だか、赤児のような啼声が、遠くなり、近くなって、偃松の原から起る、冥府の奥の、奥の方から、呼ぶようで、気が遠くなる、未だ後の人たちが来ないので、私は岩角に尻を据えて、黙って霧の中に座っていた、霧は鋭敏なる神経を有する触角のように、尖端を三角形にして、ヒューと襲って来る、霧ではない、もう雨だ、岩も偃松も、寂寞そのものの、しわがれ[#「しわがれ」に傍点]声を挙げる、私は孤独だ、天もなく、地もなく、ただ幾団が幾団に、絶えず接触して、吹き荒るる風と霧があるのみだ、宇宙におよそ蕭殺の声といったら、高原の秋の風でもなければ、工場の烟突の悲鳴でもない、高山の霧の声である。
その中に倉橋君が来る、晃平を殿《しんがり》として、一行が揃う、こう霧がひどくては、方角も何も解らない、晃平は荷を卸して、路を捜索に出たが、無益に戻って来た、岩の間を点接して、トウヤクリンドウ、ミヤマキンバイ、ミ
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