るのであるが、段々暗い地の底へ吸い込まれるようだ。
 向って蝙蝠《こうもり》岳の残雪が、銀光りに輝いて、その傍に三角測量標が、空を突いて立っている、間《あい》の岳《たけ》(赤石山脈)は森に隠れて見えない、冷い風が、暗い穴からでも来るように、ひいやりと吹く、鳥はひんから、ひんからと、朗らかに囀ずる、登るに随って、蝙蝠岳はほぼ正西《まにし》に、間の岳は北西に、いずれも残雪白く、光輝を帯ぶ。
 稀に痩せた白樺が交って来た、傾斜は二十五度位であろう、幸いなことには、岩が少なくて、黒く滑らかな土ばかりだから、足の躓《つまず》くおそれがない、白檜《しらべ》も現われて来た、痩せ細って、痛々しい、どこを見ても、しッとりした、濡れたような、温味がない、日は天に冲《ちゅう》して、頭の直上に来ているが、深林のために強烈な光線が、梢に遮られ、反抗されて、土まで落ちて来ない、峡谷の底は見えないが、サルオガセを長く垂らした針葉樹が、梢と梢とを抱き合い、すくすく躍《おど》って、私たちに向って来る、その茂りの下から、水の声が、ザーッと、雨でも流すように、峰を伝わって追いかけて来る、間の岳と蝙蝠岳とは、いつしか峰つづきになって、蝙蝠岳の残雪は、下で仰いだような、一条や二条ではない、数斑の白が、結晶したように劃然と碧空を抜き、鮮やかに、眉に迫って来る。
 今朝の小舎からは、もう一里余も来たであろう、深林の中に踏み均《な》らした小径がある、晃平は「こりゃ鹿の路だあ」と言って、目もくれずに先へ立って登る、禿木《はげき》の枯れ切った残骸が、蒼玄《あおぐろ》い針葉樹林の間に、ほの白く見える、死んでも往生が出来ないという立ち姿だ、霧がフーッと襲って来て、樹々の間を二めぐり三|巡《め》ぐりして、白檜の梢に、分れ岐《わか》れになり、ひそひそと囁《ささや》き合いながら、こっち[#「こっち」に傍点]を振り返って、消えてしまう、間の岳と蝙蝠岳の峰々の繋がりは、偃松《はいまつ》であろう、黯緑《あんりょく》の植物で、繍《ぬ》ってあって、所々に白雪の団々が見える、この赤石山脈の大嶺は、始終私たちを瞰下《みおろ》して、方幾里の空中を、支配する怖ろしい王さまででもあるように、蜿蜒と深谷を屏風立に截《た》ち切っている、そうして肩から雲を吐く、雲は梢に支えられて、離れ離れではあるが、私たちの頭へと、徐《おもむ》ろに集まって来るらしい、鳥はひんから、ひんからと啼く。
 傾斜が次第に急になる、白檜も段々小さくなる、谷々の風が吹き荒《すさ》んで、土をくずし、樹を吹き折り、上から押し流すので、傾斜がなお急になるのであろう、また一筋の路が深林の中を横ぎっている、何でも奈良田《ならだ》の人が、材木を盗伐するために、拓いたので、この道は広河内《ひろこうち》から一里半の上、池の沢というところから初まって、奈良田から四里もあるという、白河内《しろこうち》の谷まで切ってあると、晃平は語った、唐檜の伐り痕の、比較的新しいのは、それかも知れない、彼らは盗伐して、板に挽《ひ》いて、曲げ物のように組んで、里へ出すのである、林務官などが殺されたりするのも、こういう路で、不意に盗伐者に邂逅《かいこう》するときである、野獣のような盗伐者は、思慮分別もなく、牙《きば》を咬《か》んで躍りかかり、惨殺して後を晦《くら》ましてしまうのである。
 白檜の丈も、四、五尺になった、山の頂は直ぐ額の上にあるかして、水分を含んだ冷たい空が、俄にひろくなる、樹影に白い花が、チラリと見えた、誰が叫ぶとなく、石楠花《しゃくなげ》石楠花という声が伝わった、そりゃもう登山家《マウンティニアー》でなくては、想像の出来ない、世間も、人間も忘却した、心底からこみ上げて来る嬉しい声が、この一株を繞《め》ぐって起った、白峰の雪は白い、その雪解の水を吸って育った、石楠花の白花は、天風に芳香を散じて、深林の中に孤座している、西の国のアルプスの人たちが、石楠花を高山薔薇《アルペン・ローズ》と呼ぶのも無理はない、私は何よりも懐かしい石楠花に、そっと接吻した、足許を見ると、黄スミレも咲いている、偃松が始めて見えた、久しぶりの知音が、踵《きびす》を接して、ドヤドヤと霧の扉を開けて、顔を出して、手招きをしている。
 偃松は、もう白檜帯と、一線を劃《かぎ》った、その境目から下は灰色で、上は黯緑だ、黯縁の偃松は、山の峰へ峰へと、岩石を乗り越え、岩壁の筋目へと喰い入り、剃刀のような脊梁《せきりょう》を這って、天の一方へと、峰のそそり立つところまで、這い上っている、偃松の中には、風で種子を飛ばされたと見える白檜が、一、二本、継子扱いをされたように、悄然とサルオガセを垂れながら、白く骨立っている、弱きものにも寄生する更に弱きものがある、顧れば白檜帯は、脚下に圧しつけられ、背丈を揃えた庭の短
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