る。水に漂流したまま、置いて行かれたのであろう。そうして、山榛《やまはん》の木、沢胡桃《さわくるみ》などが、悄然《しょうぜん》と、荒れ沢の中に散在している。栂、樅、唐檜《とうひ》、白樺などは、山の崕《がけ》に多く、水辺には、川楊や、土俗、水ドロの木などが、疎《まばら》に、翠の髪を梳《くしけず》っている。七月の炎天も、この谷間までは迫って来ないと見えて、白剥山を一つ超えて、東俣の谷へ来ると、未だ若葉、青葉の新緑が、生々しかったが、ここまで溯ると、濶葉、細葉は、透明を含んだ、黄の克《か》った、明るみのある嫩《わか》い緑で、霧の雫《しずく》にプラチナのように光った裏葉を翻えしている。峰には未だ、残《のこん》の雪がかっきりと、白く浮き上って見えるほどである。一体に、谷は、四月の末か、五月頃の柔々しい呼吸で充ちていて、大きな声を出すのすら、いたいたしいようだ。しかし、駒鳥の錘《もり》を投げるような鋭い声は、沈滞がちな、中層の空気を引っ掻き廻している。
飯の準備をしているうちに、驟雨《しゅうう》が一としきりあって、雷鳴が近くに聞えたが、夜に入って、星が瞬いた……かと思うと、淡い、軽い霧が、銀河のように空に懸る。焚火の烟は、油紙の屋根の継ぎ目から洩れて、白い柱が立っては崩れ、風に折れて地を這《は》いながら、谷中を転げてゆく。火が、ぴしぴし、音を立てて、盛に燃え出すと、樺の立木の葉が、鮮やかに、油紙の屋根に印して、劃然とした印画が炙《あぶ》り出される。晃平が、先刻、未だ日の暮れないうち、朝飯の菜にとて、山款冬《やまふき》数十茎を折って来たのを、みんなして、退屈|凌《しの》ぎに、繊維《すじ》を抜いては、鍋へ投げ入れる。世間話がはずむ……夜半になると、焚火は、とろとろと消えかかる。寒気の強いのと、明日の天候が気になるので、眼がよく覚める。
露営地の外では、細長い爬行《はこう》動物――この谷の主――東俣の川――が、蜿《う》ねりながら太古の森林の、腐れ香に噎《むせ》んで、どこまで這って行くことであろう。
白花石楠花と高根薔薇(白峰山脈の一角に立つ記)
ゆうべは、まんじり[#「まんじり」に傍点]ともしなかった、油紙の天井を洩れる空に、星が閃《ひら》めいていれば、明日の好霽《こうせい》を卜《ぼく》されるので、仰《おが》むようにして悦ぶ、その次に覗《のぞ》くと、星どころではない、漆黒の空である、人の心も泣き出しそうになる、しかし暁天までには、焚火のとろとろ火に伴《つ》れて、穴へでも落ちたようにグッスリと寝込んでしまった、眼が覚めると鳥の声がする、谷間に「ひんから」「ひんから」と響きわたる、それが年久しく谷川の底に沈んでいる、透き通った、白い冷たい、磁器の魂が啼くのでもあるようだ。
起きて見ると、霧が団《まろ》くなり、筋になり、樹の間から立つ、森からも、谷底からも、ふわりと昇る、例の山款冬《やまふき》の茎を、醤油と鰹節とで煮しめて、菜《さい》にする、苦味のない款冬である、それから昨夕の残飯に、味噌をブチ込んで「おじや」を拵《こしら》えて啜《すす》る、昼飯の結飯《むすび》は、焚火にあてて[#「あてて」に傍点]山牛蒡《やまごぼう》の濶葉で包む、晃平の言うところによると、西山の村では、この牛蒡の葉を、餅や団子に捏《こ》ね入れて、草餅を作るそうだ、蓬《よもぎ》のように色が好くはないが、味は宜《よ》いと。
一夜作りの屋根――樅の青枝を解き施《ほぐ》して、焚火に燻《く》ゆらしてしまう、どんなに山が荒れても、この谷底まで退かない決心である、脂の臭いのする烟は、シュウシュウと呻《うな》りながら霧に交わって※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《あが》ってゆく。
川に沿《つ》いて、一、二丁も溯り、正東《まひがし》の沢へと入る、石の谷というよりも、不規則に、石を積み累《かさ》ねた階段《ステージ》である、石からは水が声を立てて落ちている、石の窪みには澄んだ水が湛《たた》えている、その上に、楢の葉が一枚、引き※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]《ちぎ》って捨てた紙片のように、浮いている、自然という無尽蔵は、何物をも、こうして惜しげなく、捨てるのだ、これからの深林もそれだ。
石の谷の中途から、路を奪って針葉樹林に入る、唐檜や栂やの純林である、樹は大きくはないが、ひょろひょろ痩せて丈が高い、そうして油気の失せた老人のように、はしゃいだ膚をして、立っている、十五、六年前に、一度伐採したことがあるのだそうで、その痕跡の仆木《ふぼく》が、縦横に算を乱している、そうして腐った木に、羊歯《しだ》だの、蘇苔が生ぬるく粘《こ》びついて、唐草模様の厚い毛氈《もうせん》を、円く被《かぶ》せてある、踏む足はふっくらとして、踵が柔かく吸い込まれる、上へ上へと高くな
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