針葉樹は、格子縞《こうしじま》を、虚空に組み合せている。その間を潜って、霧の波が、さっと寄せると、百年の古樹は、胴から上を、蝕ばまれるように、姿を持って行かれる。樹の下は、皆石である。石の上に、根を托さぬ樹は少い。その石も、樹も、皆、水の威力に牽引されているようで、濶々《ひろびろ》とした河原に、一筋水が走っている。この水のみが、活物の緑を潜《ひそ》めているかと思われる。およそ、山の中の氷の下から、数珠を手繰《たぐ》るように落ちて来る、峡間の水ほど力の強い、自由の手も少いであろう。そうして、未だ、深秘の故郷にいるかのように、足踏して跳《おど》り狂っている。根曲り竹も、楊の根も、樅の肌も、はた長くしな垂《だ》れるサルオガセも、その柔嫩《じゅうなん》の手に、一旦は、撫でられぬものはない。華麗と歓楽とを夢みるように、この雪白く、氷堅き北方の閉鎖から解かれて、南方の奢侈《しゃし》を、立ち姿や、寝像にまで現して、昼となく、夜となく、おそらく、千年も万年も、不断の進みをつづけているのだ。ああ、本洲の比類のない水成岩山、その高きこと、一万尺、古生層地の峡間を流れる水! この氷の解放に伴って、いくばくの犠牲を、要求されているかは、河原の荒涼粛殺を見たまえ。性《しょう》なきまでに白げられたる、木の骨――というより外に、与える名がない――と、砂に埋まれた楕円石や、稜角の鋭いヒイラギ石やは、丁度、人間の屍骸が、木乃伊《ミイラ》となって、木偶《でく》か陶製の人物か、区別が見えないと同じように、原性を失って、唯一自然の平等相に復帰している。そのいたましい最後の均一!
 私たちは、互に、言語もなく、眼と眼とを見合せて、すさまじい荒廃の姿に顫《ふる》えた。

 森谷沢《もりやさわ》という一筋の小川が、左から流れて、落ちるところあたりから、谷というよりも、沢の方へ近くなり、両側の山の頭が低くなって、天が俄に高くなった。これらの山を踏まえて、農鳥《のうとり》山の支峰、白河内《しろこうち》岳が、頭を出す。名にし負う白峰、赤石、両大山脈が、東西に翼をひろげて、長大の壁をたてめぐらし、互に咫尺《しせき》する間に、溝のように凹まった峡谷は、重々しい鉛色の空であるから、まだ一時半というのに、黄昏のように、うす暗い。前夜の小舎よりは、二里の余も来たろう。
 とうとう大雨が降って来た。私たちは、森の下蔭に身を潜めて、小止みを待っている。雨嫌いな私は、鰍沢《かじかざわ》で、万一の用心にと、買って置いた饅頭笠を冠り、紐《ひも》の結び方で苦心をしているうちに、意地の悪い雨は、ひとまず切り上げてしまって、下界を覗く空の瞳《ひとみ》がいまいましいまでに冷たい。また、二回の徒渉をして、広河内《ひろこうち》へと達した。
 私は、このような狭苦しい谷の中で、このような広濶な地を見られようとは思わなかった。広河内のあるところは、東俣の谷の奥の、殆んど行き止りで、白峰山脈と、赤石山脈の間が、蹙《せばま》って並行する間の、小《ちいさ》い盆地《ベースン》である。丁度、白峰山脈からいえば、農鳥山の支峰の下で、河原から、赤石山脈の間《あい》の岳《たけ》とは、真面《まとも》に向き合っている。両山脈の相対する間隔は、直径約一里もあろうか、間の岳の頂までは、この河原から一里半で達せられる。岳の裾から河原へは、灰色の沙《すな》が、幾町の長さの大崩れに押し出している。全く洪水よりも怖しい沙の汎濫である。絶頂から山越しに向へ一里半も下りると、中股というへ出られる。なお一里で、小西股の材木小舎に出て、そこから八里ばかりで、この旅行の発足点とした、湯島温泉へ下られるということであったから、もし天候が嶮悪で、白峰山脈縦断が、覚束《おぼつか》なかったら、その路を取って、引き返すはずにして、きょうは天候も悪いし、これから農鳥山に登る間に、適当の露宿地がないというので、まだ早いが一泊することにした。猟師は楓の細木を伐《き》り朴《たお》し、枝葉を払わないままで、柱を立て、私たちの用意して来た、二畳敷ほどな油紙二枚を、人字形に懸けて、家根を作る。それから、樅や、栂の小枝を、鉈《なた》で、さくりさくり伐り落して、鮮やかな、光沢のある、脂の香気が、鋭敏に鼻感を刺戟する、青葉の床を延べる。ふっくりと柔く、尻の落ちつきがいい。同行八人の寝室も、食堂も、ここで兼ねるのである。早速、焚火にかかって、徒渉に濡れた脚絆《きゃはん》を乾すやら、大鍋を吊《つる》して湯を沸かしたりする。
 広河内の土地のありさまは、中央日本アルプスの聖境、上高地の中、島々《しましま》方面から徳本《とくごう》峠を下り切った地点に、よく似ている。大沢が、濶く、峡間に延びて、峡流の分岐したのが、幾筋となく蜿《う》ねり、枯木が、踏み砕かれた、肋骨のようになって、何本も仆れてい
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