、火孔から天に冲《ちゅう》したかとおもうと、山体は渋面をつくって、むせッぽい鼠色に変化した、スケッチをしていた人は、この瞬間とも刹那とも言いようのない、迅速な変化に、呆《あき》れ返って、写生の手を丸ッきり休めてしまった、そうしてひょい[#「ひょい」に傍点]と私と顔を見合せて、両方で決《き》まりの悪いような、話の解《わか》ったような、微笑を交換した、瞬間の変化は晴れた空のおとなしい光線にもあるが、このような、あわただしく、激しい変化が、液体なら知らず、固体のどこにあろうか。
まことに火山ぐらい、神経の尖《とが》って、感受性の鋭敏なものは、無機物|殊《こと》に固体の中では、見出されまいかとおもう、たとえば物に感触しやすい人々の皮膚の下に、青白い筋が立ったり、顔色がすぐ変ったりするように、火山の皮膚も、柔かい砂や、灰や、礫《こいし》が、ざわついているため、水の流れた痕《あと》も、雪の辷《すべ》った筋道も、鮮やかな美しい線条や斑紋を織り成す、富士の八百九沢に見らるる大日沢であるとか、桜沢であるとかいうのは、みんな流水や、墜雪の浸蝕した痕跡であるが、あの御殿場口から登り初めると、宝永山の火山礫を冠った二箇の砂山が、山腹から約百尺も顔をもちあげて、裾を南へ引いているのを見るであろう、あれは二ツ塚という二子式の火山で、しかも側火山(学者によっては、寄生火山という言葉を用いているが、寄生植物のように、別種のものが、他種の本体に倚《よ》りかかっているのでないから、これを寄生というのは、いかがかと思う)であるが、この二ツ塚などには、山から吹きおろす風の斑紋までが、分明に黒砂に描き出されている。火山の中は凡《す》べてが「大きな単純」であるから、注意して観察すれば、風の描いた紋も解るのである、もっともこういう現象は、火山とのみ限られることではないが、火山のような柔らかい印象を受けやすい皮膚であればこそ、それを劃然と、鮮明に残しているのである。
以上は、火山を、それ自ら単独のものとして、観察したのであるが、このような能動的な、積極的な、神経が尖って、触覚が鋭敏な火山が、日本アルプスの大山系に潜ぐり込み、そこから赤裸になって躍《おど》り出したところに、いかばかり特色のある山岳景を作り出したか、私は次にこれを言って見たいのである。
日本北アルプスの中、槍ヶ岳山脈へ登山する根拠地として、年々の夏は、多数の人が入浴がてら、往《ゆ》くところは、信州神河内(上高地)温泉である、ここは石英斑岩だの、花崗岩だのという堅硬な火成岩の大塊が、山岳としては、壮年期ともいうべき、最も成熟し切った発達を遂げている、これらの大岩壁は、日本本州の脊髄骨ともなり、または日本本州という大館を支える鉄骨ともなって、海抜一万尺前後の標高を示して谷地(河内という称呼はおのずから谷地を暗示している)の四周に、あるいは尖塔《ピンネークル》となり、あるいは円頂塔《ドーム》となって、簇《むら》がり立っているが、神河内は、その大山峻立の底に、落ち窪んでいる平坦地という以外に、森と水の美しさを有している、その緑※[#「靜」の「爭」に代えて「定」、第4水準2−91−94]《りょくてん》色の水と、青々とした森の美しさは、この河内が、かつて湖水であったという事実を、四囲の地形と共に、暗示しているばかりか、その湖水の成因は、火山の活動に帰せられているのである。
ここには日本アルプス中、唯一の活火山硫黄岳(御嶽火山脈に属し、乗鞍岳の尾根つづきに当る)があって、硫黄岳(別名焼岳)の一峰、白谷火山は、梓川の断層地に、割谷火山は、花崗岩と秩父古生層の接触線に沿うて、いずれも噴出を始め、硫黄岳と共に、この乱峰の間を回転する流水の行き途に立ちふさがり、流水を停滞させて、随分と深い湖水を作ったらしく、その湖水を作る以前は、飛騨の高原川(越中に入って神通川)と連続して、谿水が北流していたのではあるまいかという想像が、或地質学者によって、容《い》れられてある。
然《しか》るに前述のように、硫黄岳|火山彙《かざんい》の噴起で、閉塞されて大湖水となったが、湖水それ自らの浸蝕によって、後に一方を欠開し、今日見られるように高原川(神通川)とは別な、梓川(越後に入って信濃川)となり、硫黄岳は今日では、両川分水嶺の一座になっているが、湖底が乾いて洲となり、河原となり、残丘となって、今の神河内を作った後までも、硫黄岳火山は、間断なくこの高原に作用をして、火山の泥流は更に水を堰《せ》き止めて、神苑のような田代池などいう後成的の湖水を作って、殊に秋ともなれば、湖畔の草を、さやさやと靡かせ、金の如き水楊のわくら葉を振り乱して、鳧《かも》が幾十羽となく、群《むらが》って魚を喰べに来るというほどの、静かな谷になって、青々とした森林は、肥沃な
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