新火山岩の分解した土が、その根を培《つち》かっている、今日神河内温泉宿の二階で、浴衣がけの人たちが、足を投げ出しながら、穂高岳や霞沢岳の大岩壁を仰いで、食物のまずいのだけを、傷にするような安楽を言えるのは、火山の作った敷石や甃《たたき》のあるおかげであることを、忘れてはならぬ。
 ひとり神河内ばかりではない、日本アルプスを欧洲アルプスと比較すると、我に氷河のないのを物足らなく思うものの、火山は或意味と或方面とにおいて、日本アルプスのために氷河の欠乏を補うだけの、働きをしてくれているのである、瑞土《スイス》アルプスなどは、殊に氷河の造った山湖に富んでいるが、日本アルプスでは、御嶽の五個の池や、乗鞍岳の大池と丹生池や、立山のミドリヶ池|及《および》ミクリヶ池など、いずれも火山の産物で、標高においては、遥かに欧洲アルプスの、湖水を凌いでいる、たとい湖の面積深度は、浅小でも、止水の明浄なことにおいては、彼に克《か》っている、殊に槍ヶ岳山脈の北翼、鷲羽《わしば》岳の南腹にある鷲の池などは、大花崗岩塊の傍《かたわ》らに生じた噴火口に、水が溜まって湖になっているので、今でも湖岸に黒|焦《こ》げのした熔岩《ラヴァ》の塊が、珊瑚礁における、珊瑚片のように散乱している、これらは他の大山脈に多く見られない現象で、日本アルプス山岳景の特色と言っても、大した差支《さしつかえ》はなかろうかと思われる。
 欧洲アルプスに有って、日本アルプスにないものは、石灰岩質の大山嶺である、石灰岩が、地下の伏流や、地上から滲透する水などのために、含有している炭酸を溶解され、内部から同地質の岩石を分解して、内部は広く外部は狭い洞窟などを作っていることは、秩父山地などに、最も多く見られるところであるが、日本アルプス地方では、梓川に近い白骨《しらほね》温泉に「ついとおし」という石橋だの、「鬼ヶ城」という鍾乳洞を見ることが出来るが、そんな小技巧は、山岳景に重きを加えるほどのものではないとして、石灰岩質の大山岳は、日本アルプスには見ることが到底出来ない、随って欧洲アルプスなどで最も純粋の紫や、孔雀《くじゃく》の羽のような濃厚深秘な妖色《ようしょく》を示すことのある、伊太利《イタリー》ドロマイト(白雲岩)に比べ得べき秀麗な山岳は絶えて見られないのであるが、幸いに御嶽や、乗鞍岳や、また日本アルプスの区域以外ではあるが、加賀白山のような秀麗な火山があるので、ちょうど欧洲アルプスでは瑞土の粗剛(Swiss Ruggedness)に、伊太利の典雅(Italian Grace)とが、程よく配合されて、壮大な山岳景を作っているように、日本アルプスでは、花崗岩や石英斑岩のような、堅硬で兀々《ごつごつ》した火成岩塊に、火山岩の柔和な曲線や、斉整せる輪廓を配合して、ここに世にも稀なる線と色彩のシムフ※[#小書き片仮名ホ、1−6−87]ニイを奏でている。
 そうして火山岩と火成岩とが、日本北アルプスに交錯して、噴出したり迸発《ほうはつ》したりした結果、北アルプスの山形は、槍ヶ岳や鹿島鎗ヶ岳(ただし鹿島鎗ヶ岳は観方にもよるが)のような、孤剣空を削るような、尖鋭な峻峰もあるが、概して花崗岩は塊状を呈し、火山は円錐形に盛りあがるものであるから、山岳は穹窿《ドーム》形の高塔を築き上げて、人類の起工した大伽藍の荘厳を憶い起させる、穂高岳、霞沢岳、笠ヶ岳、蓮華岳、常念岳、大天井岳、剣岳などは、いずれも肩幅が濶《ひろ》く胛肉《こうじゅう》隆々として勃起している、山形分類を行えば、先ず穹窿《ドーム》形の部に入るべきであろう。
 しかも北から南までを通じての日本アルプスを、統御する威厳と運命とを備えているものは、畢竟《ひっきょう》するに日本山岳の欽仰《きんぎょう》すべき大徳の女王、富士山で、高さにおいては言うまでもないこと、その秀麗の山貌と、優美の色彩と、典雅の儀容とにおいて、群山から超絶している、むしろ統御の別席をしつらえるために、ことさらにアルプス大山系を回避して、太平洋岸に独歩特立して、一段と超越した高御座《たかみくら》を築き上げたかのように見える、日本アルプス大山系の地質構造史において、富士帯の大火山線が、重要なる関係を有しているように、山岳景においてもまたそうである、そうであらねばならぬのである、誰か偉大なる富士山を除外するような僭越と非礼と亡状を敢えてして、日本山岳論の特色を論ずることが出来よう。



底本:「山岳紀行文集 日本アルプス」岩波文庫、岩波書店
   1992(平成4)年7月16日第1版発行
   1994(平成6)年5月16日第5刷発行
底本の親本:「小島烏水全集」全14巻、大修館書店(1979年9月〜1987年9月)
入力:大野晋
校正:地田尚
1999年9月20日公開
2005年12月1
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