は、人間が草木のある土を歩くのではなくて、草木の世界に人が無理やりに割り込んで行くのである、初夏の青が緑になり、緑の上にも年々の黒い緑が塗られて、蒼黯《あおぐろ》い葉で丸く塊まった森は、稀に入って来る人間を呑み込んで、その蒼い扉をぴったりと閉じ、シンと沈黙してしまう、唐松の梢が、風にさやさやと揺《ゆら》めくと、今まで黙っていた焼岳の灰が、梢を放れて粉雪ほどに、人間の肩に落ちかかる、赤蜻蛉が、谷川の上を、すーい、すーいと飛んで行く、空は帯のように細くなってしまう、稀に来る人の足音におどろいて、小さい黄色の蝶の群れがパッと一時に舞い立つと、秋の黄ばんだ銀杏《いちょう》の葉のように、上を下へと入り乱れる、私の友人で、昆虫学者なるT君が、去年私と一緒にこの路を通りながら、島々谷ぐらい、胡蝶の多い谷はすくないと言われたのを憶い出して、しばらくは飛んで行く黄色い小さな魂を見つめていた。
 この谷は、しばらくは、一方は截《き》っ立った崖で、一方は森の下道である、そして板橋一つで、向う岸へ往ったり、こっちへ来たりするので、橋が多い、その板橋を渡る時には、いつも冷たい風が、上流の方から吹いて来る、それは雪を含んで来るのでなければ、氷のように冷たい水のおもてを吹いて来るからであろう。
 私は路々に白いものが飜《こ》ぼれているのを、注意して見たが、それは蝶の翅《はね》の粉が、草に触れ木になすられて、散ったように、澱《よど》んでいるのであるが、よく見ると例の灰である、傷を受けて遁《に》げ足をする獣のあとに、濃い碧の血が滴れているように、日に一寸だめし、五寸だめしに、破壊されている焼岳が、顫《おのの》いたりわめいたりするときに、ところを嫌わず、苦痛の署名《サイン》をして行くのがこの灰である、先刻の梓川の河原にもあった、古楊にもあった、葛の裏葉にもついていたが、島々谷に入ると、黒い粘板岩にも熊笹の葉にもこすられていて、その大部分は風に吹かれ、雨に洗われるであろうのに、残ったのが、未だ執念深く、しがみついているのである。
 むかし戦国時代、飛騨の国司、姉小路秀綱卿が、いくさに負けて、夫人や姫君と共に、落ちのびるところを、追手に殺されたという、執念の谷に、執念ぶかい焼岳の煙が靡き、灰が降りかかるのである。
 谷が蹙《せば》まるに随って、両崖の山は、互い違いに裾を引いて、脚部を水にひたしている、水は
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