の絶壁が飛騨側から信州側に移ったとき、垂直線を引き落した、駭《おどろ》くべき壮大なる石の屏風がそそり立って、側面の岩石は亀甲形に分裂し、背は庖刀《ほうちょう》の如く薄く、岩と岩とは鋭く截ち割られて、しかも手をかけると、虫歯の洞《うろ》のようにポロポロと欠けるので、石とも土ともつかなくなっている、手をかけても、危くないように、揺り動かしては、うわべの腐蝕したところを欠く、欠けば欠くほど、ざわざわと屑の石が鳴りはためいて、谷々へ反響する、霧は白くかたまって、むくむくと空を目がけて※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《あが》って来る、準備の麻の綱を出して、私の胴を縛りつけ、嘉代吉に先へ登って、綱を引いてもらって、岩壁にしがみつきながら、登ったが、さて飛騨から信州側に下りようとしたら、岩の段が崩壊して、どうにもこうにも、ならない、中で頑畳らしい岩を挟んで、A字形に嘉代吉に綱を引いてもらい、それにすがって、少しく下りて、偃松の枝に捉まって、涸谷を眼下に瞰下《みおろ》すようになったが、ここにも大きな残雪があったので、雪と岩片を綯《な》い交《ま》ぜに渡った。
 大きな霧が、忍び音に寄せて来た、あたりに暗い影がさした、この魚の骨のように尖った山稜で、雨になられたらとおもうと、水を浴びたように慄《ぞっ》となる、霧がたためく間に灰色をして、岩壁を封じてしまう、その底から嘉代吉の鉈《なた》が晃々と閃めいて、斜めに涎掛《よだれか》けのように張りわたした雪田は、サクサクと削られる、雪の固い粒は梨の肉のような白い片々となって、汁でも迸《ほとばし》りそうに、あたりに散らばる、鉈の穿《うが》った痕の雪道を、足溜まりにして、渡った。
 屏風岳は、近く眼前に立て廻され、遥かに高く常念岳は、赭《あか》っちゃけた山骨に、偃松の緑を捏《こ》ね合せて、峻厳なる三角塔につぼんで、東《ひんがし》の天に参している、その迂廻した峰つづきの、赤沢岳の裏地は、珊瑚《さんご》のように赤染めになっている、振りかえれば、今しがた綱を力に踰《こ》えた峻壁の頭は、棹のように霧をつん裂いている、奥穂高につづく尾根は絶高なる槍の尖りを立てて、霧に圧し伏せられる下から、頭を抜き出している、そのうちに偃松が深くなって、尾根が行かれないため、谷へ下りる、もう日が少し高くなったので、雪田の下からは、水がつぶやいて流れている、その溜り
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