許が少しでも、物色の出来るうちにと、ひたすら路を貪って、峠からひた押しに、梓川の森の下道に入る、青い草が絨氈のようにふっくりして、くたびれた足を持ち上るようだ、暗《やみ》の中でも、石だけは白く光っている、穂高岳をふと振りあおぐと、あの肉塊隆々とした、どす黒い岩壁の、空を境にした山稜を、遠くから洞燈《ぼんぼり》をさしかざしたように、柔らかな光線が、のたのたと、蛇のように這っている、それが岳川岳の方へと、一、二寸ぐらいずつ伸びつ縮みつして寄って来る、刹那刹那に烟のように変化して行く、アア Alpine Glow 始めて観たアルプスの妖魔の色!
 私は、くたびれを忘れて、躍り上って悦んだ、その光りは天頂の方へと段々高くなって、最後に燐寸《マッチ》を擦ったように、パッと照り返した、森はもうまっくらになって、徳本の小舎のうしろへ来ると、嘉代吉は「オーイ」と呼ぶ、小舎の中からオーイと対《こた》える、「ちょっと待っていて下さい」と荷を卸して軽々と飛んで行ったが、間もなく戻って来て、おやじの嘉門次が、お客さまを槍ヶ岳と穂高へ案内して、少し足を痛め、小舎(宮川の)に帰ってきょう早くから寝ているという言伝てが、この小舎の人にあったと語る、嘉門次がいなくては、穂高岳から槍ヶ岳つづきの峰伝いは、どうなることやらと、心配しながら、温泉へと急ぐ。
 足もとは暗いが、木の梢だけは、夜の空にかっきりと黒く張って、穂高の輪廓は、ボーッと、物干棹《ものほしざお》でも突き出したように太く見える。私の眼の周囲には、萌黄にぼかされた穂高の峰々が、神経の電線に燃えついて、掻き消されそうもない、私は眼球の上へ、人さし指を宛てて、グリグリとやって見たが、一、二尺の先を見つめるのが精々で、森の梢は、その燃えさかりの※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》の中に、暗を縦横に引っ掻き廻し、入り乱れて手を突き、肱《ひじ》を張っている。
 私は幾度となく、首を俛《た》れては、梢の下を潜った、枝は人を見ると、ひしひしと身を寄せかけて、しがみつきそうにする、私は引き締まった、用心ぶかい態度になって、木の葉の呟《つぶや》きも聞き洩らすまいとした、あとから跟《つ》いて来る嘉代吉の足音が、ひたひたするだけで、谷の夜空は、猫眼石から黒曜石に変化した、焼岳の願人坊主のような頭が、夜目にも、それと見えたので、心おぼえの
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