橋が近いと思った、星の光が澄み切って、濁りのない山中の空気を透《すか》して、針のように鋭くチラチラする。
 橋を渡って、竹籔の中を、しゃにむに押し分け、梓川の水面を見ながら、森の中を三、四町往ったかとおもうと、温泉宿の火光がちらりと見えた、嘉代吉が「オーイ」と呼んで見たが、返辞は更にない。

    神河内

 私の室として与えられたのは、この温泉宿の二階の取っ附きで、一体が大きな材木を使ってある割合には、粗雑な普請で、天井も張ってなければ、壁などは無論塗ってなく、板の壁には、新聞紙がベタベタ張りつけてある、床の間には印刷した文晁《ぶんちょう》の鹿の幅などが、なまじいに懸けてあるのが、山の宿としては、不調和であるが、それでもこの室だけは、一番上等の間《ま》だと見えて、赤い毛布を布《し》いて、客間然とさせてある。
 障子を開けて、椽側に出ると、眼の下がすぐ湯殿で、幅濶《はばひろ》の階子段《はしごだん》を下りると、板をかけ渡して湯殿へ交通が出来るようになっている、その湯殿の入口に、古ぼけた暖簾《のれん》を懸けてあるのが、何だか宿場《しゅくば》の銭湯をおもい出す、この湯殿の側には小池が二つ連なって、山から落ちた大石が池の中にはまり込んでいる、そうして水底から翡翠《ひすい》のような藻草や、海苔《のり》のようにベタベタした芹みたいな植物が、青く透き通って見える、その一ツの池からは、いつも湯の烟がほうほうと立って、鉄気《かなけ》で水が赤|錆《さ》びている、池の畔には川楊が行列をして、その間から、梓川の本流が、漫々と油のような水を湛えて、ぬるぬる流れている、この温泉は梓川の河原から湧いて出ると言って、いいくらいに、本流に近いのである。
 二階は手摺《てすり》つきで、廻り椽になっているので、西に向いた曲り角に来ると、焼岳がそっくり見える、朝早く起きたときには、活火山というよりも、水瓜《すいか》か何ぞの静物を観るように、冷たそうな水色の空に包まれて、ひっそりとしている、山の頂は、兜《かぶと》のような鈍円形をして、遠目ながらも森の枯木が何本となく、位牌のように白く立っているのが見える、木のないところは火口から吐き出す泥流がかぶさって、それが干からびて、南京豆の殻のような、がさがさとした、乾き切った色をしている、頭から肩と、温泉宿の方へズリ下りて、火口壁の聳えたところに、折り目がいくつか
前へ 次へ
全40ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング