中を伸びつちぢみつして、消えて行く、水の声は夢の中からでも聞えるように、脚の下からのぼって来る、そうして、峠の頂に近くなったときは、霧がそぼそぼとして、細かい粒の雨が、バラつき出したが、それでも合羽《かっぱ》を出すまでには至らなかった。
根曲り竹や白樺の細路を、グングン登って行くと、向う側に見える山は、半分ばかり、この峠の影がのさばりかかって、喰い取られたように黒く蝕《むし》ばみ、上半分は夕日で黄に染まって、枯木にまで、その一端が照り添って、目眩《まぶ》しいように、顔を反《そ》むけたかと見えたが、またカッキリと白く、象牙のように夕の空に浮び出で、それが一本一本ハッキリとしたときには、黄な臭いような気分になった。
峠の頂には、黒檜《くろべ》や樅《もみ》や白樺が、こんもりと茂っている、その凹んだ鞍のような路から、左の小高い崖に登って向うの谷を見ると、大なる穂高山は、乱杭歯《らんぐいば》のような肩壁を張りつめて、奥の穂高とおぼしきは、一と際《きわ》高く黒縅《くろおどし》の岩石を空に抜き出で、御幣岳は最も近く峰頭を尖らせ、南の穂高は残りの雪がべったりと白く、北東へ向けては岳川岳の大障壁が出て、梓川の谷間へどっしりと重たく、幅を利かしている、鶯《うぐいす》はせせこましく、夕の空気をつん裂いて啼く。谷の中を、穂高岳を中心として、この山から去ろうとしては、思いを残しているような雲が、綿のように丸まって、穂高の肩にぶつかったが、女の子がちょいと投げた紙屑のように、そのまま無造作に辷《すべ》り落ちて谷へと消える、幾度も来たところではあるし、日も落ちて足許が暗くなるので、私はあわただしく峠の下り道を走って下りた、穂高のうしろに低く聳えた大天井《おてんしょう》岳と常念岳が、夕日の照り返しを受けて、萌黄《もえぎ》色にパッと明るくなっている、野飼いの牛が、一本路をすたすた登って来たが、そこには、逆茂木《さかもぎ》がしつらえてあるので、頭を低《た》れて、入ろうとしたが、入れそうもないので、恨めしそうに佇んで、ジッと見詰めている、私たちは逆茂木と牛の間に割り込んで、身を平ったく、崖につけて、牛をかわして、スタスタ下りる、振りかえれば、牛は追って来ようともしないで、夕暮の沈んだ空気の中に眼鼻も何もない黒いものが、むくむくと蠢《うご》めいている。
白樺の森も、梓川の清流も、眼に入らばこそ――足
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