行く旅人を見るに過ぎなかったのであろうと想像されるが、今日では夏日になれば、登山客がこの谷に多く群集して、数十年来の谷の主《ぬし》、老猟師嘉門次に呆《あき》れた眼を※[#「※」は目へんに「爭」、374−9]《みは》らせるようになった。
 私が温泉宿の主人、加藤氏に聞いたところを事実とすれば、明治四十二年は、宿帳に註せられた客が千百三十人、翌四十三年は、千百九十人で、最も混雑する時は、一日に九十人位を泊めることがあったそうである、現に我参謀本部の陸地測量部が、大正元年測量したばかりの槍ヶ岳焼岳二図幅(五万分一図)を、翌年製図発行したことなどは、その早手廻しにおいて、前例のないことで、それは登山者の希望のあるところを容れた結果であろうとも推せられるし、また実際、多数は則《すなわ》ち勢力であるから、多数の登山者を有する山岳は、それだけの要求を有し得らるることと信ずる。
 かくの如き繁昌が、単に温泉のためでなく、登山または観光を主要な目的とする客が、その過半数を占めているというに至っては、常念山脈の麓にある、中房温泉がやや似ているとしても、先ず他に例のないところである、上高地が特に多く登山客を
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