そうして槍ヶ岳や穂高岳への最も好適なる登山地点は、上高地温泉であることは、言うまでもない。
 山岳は登山地点の便不便によって、世に著われることの遅速があり、かつ人間との交渉を多少にすることを免かれがたい、欧洲アルプスのマタアホーン山は、日本の槍ヶ岳に類似した峻峰で、久しく人界から超絶していたが、ゼルマットという登山地点が発見せられ、そこにいい旅館が出来て、叮嚀《ていねい》に客を待遇するようになってからは、初めての年に、一ヵ年八十人ぐらいしか登山客のなかった土地が、後には毎年何千人という登山者を見るようになった、アルプス山の最高峰、白山《モン・ブラン》における登山地点、シャモニイ渓谷の発見も、また同様の関係を有している。
 我が日本アルプスでも、上高地は、私が明治三十五年に、白骨温泉から梓川を渉《わた》って、霞沢岳を踰《こ》え、この峡谷に下りて、槍ヶ岳へ登ったときは、夏とはいえ、寂寥無人、太古の如き感があって、温泉の湧出《ゆうしゅつ》はあっても、今日のような宿屋は、まだ建っていなかった。その時分上高地峡谷に入る人は、猟師の外に、稀に飛騨の蒲田谷から、焼岳を越えて来るか、あるいはその反対を
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