いる。花袋については、花袋全集の刊行されている今日、その文学的総収穫について、統一した見解が、定めて下されることであろうが、私は彼の紀行文について多く世に知られていない功績をあげたいと思う。
花袋は、明治二十七年四月六日、太田玉茗(花袋夫人の兄)とともに、武州小金井の桜花を見て、急に幕末の儒者林※[#「雨/鶴」、第3水準1−93−74、75−9]梁先生が記した多摩川の上流に遊びたくなり、財布の軽いのをがまんして、二人で青梅街道へと出た。当時は青梅鉄道もなく、全くの徒歩、しかも名ばかりの街道で、寂寞無人、道跡は泥と小石で、折からの大雨に、ビショ濡れ、行っても、行っても、武蔵野か、小松原ばかりで、二人抱き合って、不遇の文人が、不遇の山水のために、数奇な運命を嘆き合った。困憊と疲労の極、こんなにしてまで旅行して、ほんとうに、美しい山水があるのだろうかと、受け身の玉茗が花袋に念を押した。青梅の町ではどこの宿屋でも、風体のわるいために拒まれ、最下等の木賃宿に、辛くも一夜を明かして翌朝、日向和田からまもなく多摩川の岸に出で、それから村舎離落の間に桃の花、それから多摩の奇景が開け、小丹波、白丸、数
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