。木城君とは、そのときが初対面であった。話をしてみると、合評に根を持った反感がだいぶ消えた。その後『文章世界』で読者から紀行文家を投票させて、最高点を得た人に、彫塑かまたは油絵肖像を贈呈するということであった。私はたいてい当選者は決まっているだろうと僻み根性を出して、傍観していたら、どうしたことか、私が最高点に当選していた。そして孤雁木城二君が、横浜山王山の私の宅を尋ねられた。私は油絵の肖像を希望した。前田君は、画家として中村彝君を勧めてくれた。それでなければ、橋本邦助君はどうだということであった。私は実は中村彝君の絵を見ていなかったので、親しみが薄く、橋本君の温藉な画風を愛していたので、結局橋本君をわずらわすことになった。橋本君は、東京から山王山まで通って、登山仕立ての私を描いてくれた。服装はスイスから取り寄せた品で、羽をはさんだ帽をかぶり、ピッケルを手にして考えているようなポーズをしたものであった。背景は私の好みで、北斎の浮世絵、富嶽三十六景中の傑作「電光の富士」を用いた。その絵の写真は『文章世界』に載せられた。原品の肖像画は、「紀行文豪」たる、あるいはたりし記念として、家蔵として
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