ガウランドだの、ウェストンだのという名が、若い人たちの口の端に上るようになった如くに)。それから第五、第六の「あたかも」が、未だ続いて挙げられるが、もうその点は打ち切って、私たち同行四人が、シャスタ山に登ったのは、大正八年(一九一九年)九月十一日のことで、未だこの山の草分けを記念するための、シッソンの名が残っていた時分であった。その頃、シャスタに登る人は、一と夏を通して、百人か百五十人位と登録せられていたし、殊に日本人の登山としては、私たちが初めてのものであった(前に日本人が登っていたという記録があるならば、是非《ぜひ》知らせていただきたい)。その私たちの登山にしてからが、時間不足のために、絶頂の剣ヶ峰ともいうべき、シャスタ・ピークまでは、達しなかったのだから、一個の予察地形図をスケッチしたぐらいの、軽い気分で読んでいただきたい、何も登山記だからと言って、死に身になってコチコチと緊張しなければならない、というものでもなかろう。
 シャスタへ行くには、私たちの居住地、桑港から、オレゴンへと北向する南太平洋鉄道の便を借りるのである。汽車はサクラメントの大河に沿うて走る、川の底には、堅い凝灰
前へ 次へ
全20ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング