流というのが、幅濶《はばびろ》の二筋三筋に別れ、川と川との間には、花崗《みかげ》の白い砂の平地と、この平地にみどりの黒髪を梳《くしけず》る処女の森とで、水は盲動的に蛇行して森と森との間を迂回する、あるいは森を突き切って、向うの平地へ驀地《まっしぐら》に走る、森は孤立した小島になる、水楊が川の畔《ほとり》にちょんぼりと、その蒼い灰のような、水銀白を柔らかに布《し》いた薄葉を微風にうら反《が》えしている、たまに白砂の中に塩釜菊が赤紫色に咲いているのが、鮮やかに眼に映る外は、青い空と、緑の木と、碧の水。
しかしてどこから見ても、神河内を統御する大帝は穂高岳で、海抜五千七百尺の神河内から聳ゆること更に五千尺に近く、梓の濶流も、支線の小峡流も、その間の幾十反の点々たる平地も、何もかも一切包まれた谷は、神つ代の穂高見《ほたかみ》の命《みこと》の知ろし召す世界である。
蝶ヶ岳から短沢へ下りて来た自分は、先ずこの清い流れに嗽《すす》ぎもし、頭も洗い、顔も拭いた、気が遠くなるような悪臭の蕕草《かりがねそう》を掻き分けたことや、自分の肩から上を気圏のように繞《め》ぐっていた蚋《ぶと》の幾十|陣団《じんだん》やに窒息するかと苦しんだことも、夢の谷へ下りては、夢のように消えて、水音は清々《すがすが》しい。
川は浅く、底は髪の毛一筋も見え透く雪解水《ゆきげのみず》であるが、碧《へき》きわまって何でもこの色で消化してしまう、水底の石は槍ヶ岳の刃の飜《こぼ》れた石英斑岩、蝶ヶ岳から押し流された葉片状の雲母片麻岩、石そのものが、流水、波浪の細い線を有《も》って、しかもレンズのように透明である、片麻岩系の最大露出、赤石山系にも見たことのない美しさである、瞬いたのは夕の星の沈んだのか、光っているのは蛍が泳いだのか、青いのは燐が燃えているのか、白いのは水仙の茎の流るるか、静かなときは水が玻璃《はり》に結晶したかの如く、動けるときや、流紋岩、蛇紋岩が鍋で煮られて、クタクタの液汁に溶かされたようで、石を噛んで泡立つとき、玉霰飛び、綿花投げられ、氷の断片流動し、岩石に支えられて渦や反流を生じ、畝《スウエル》の寄せては返すとき、一万尺の分身なる石と、万古の雪の後身なる水とは、天外の故郷を去って他界にうつるのだからと抱き合ったり、跳《おど》り上ったりして、歓楽と栄華をきわめている、この狭い、浅い、谿谷《けいこく》も、穂高の大岳、眉を圧して荒海の気魄、先ず動くのである。
川の両岸――といっても堤《どて》を築いた林道を除く外は、殆ど水と平行している――には、森林がある、樅《もみ》、栂《つが》、白檜《しらべ》など、徳本峠からかけて、神河内高原を包み、槍ヶ岳の横尾谷、赤沢に至るまでみんな処女の森を作っている、最も幾抱えもあるような大木は見えなかったが、水を渉《わた》って森に入ると、樅の皮は白い苔《こけ》の衣を被《かつ》いでいる、淡褐色となって鱗《うろこ》のように脱落したのもある、風に撓《た》められて「出」字状に臂《ひじ》を張った枝は、屈《かが》めた頭さえ推参者めがと叱るように突き退ける、栂の黒色の幹が、朽ちて水の中に浸っている、大方|紫檀《したん》に変性するだろうと思われる、さすがに寒いと見えて、唐檜は葉の裏を白い蝋で塗っているのが、遠くからは藍色をして、天空の青、流水の碧と反映している、かような森林も、路という路はなくて、根曲り竹がふさがっているから掻き分けて行く。
森が尽きる、また水を渉る、水は偏って深く、偏って浅い、右から左へと横切るのに、是非深いところを一度は通る、木の葉のように脈もなく繊維もないのに、気孔に幾億万の緑素があって、かくは青いのかと、足を入れながら底を見る、水に沈めるは、白い石も青く、水面より露われたるは、黒胡麻の花崗石《みかげいし》も銷磨《しょうま》して、白堊《はくあ》のように平ったく晒《さら》されている、しぶきのかかるところ、洗われない物もなく、水の音は空気に激震を起して崖に反響し、森を揺すっている、その光波の振動が烈しく眼を掠《かす》めるので、あまり見惚《みと》れると、眩暈《めまい》がして後髪を引き倒されそうになる、それよりも堪《たま》らないのは、水が冷たくて足が焼き切れるかとおもわれることで、足が呼吸を止められて喘《あえ》ぐのが透いて見える。
ようやく川を渉る、足袋底がこそばゆいから、草鞋を釈《ほど》いて足袋を振うと、粗製のザラメ砂糖のような花崗の砂が、雫と共に堕ちる。
このような川渉りを、幾回もさせられるのである。
三
穂高山の前面に来る。
河原を切れて処女の森の一つに入る、白檜の森は、水のような虚空を突き、空のような水の面を伺い、等深線の如く横さに走っている、森の中の瀝青《チャン》のような、玄《くろ》ずんだ水溜りは、
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