ものに「俊」の作り、145−14]皺《ひだ》もあり、断崖もあって、自らなる山性を有《も》っている、人間の裳裾《もすそ》に通う空気は、この頭上を避けて通るだろう、いかなる山も、その要素では石以上の趣味がない、これは自分の石の哲学であるが、実際、神河内渓流もかようなところで、四周を包囲して峻立する槍ヶ岳、穂高山、以下の高山は奇怪の石の塊というまでで不二山のような歴史や、讃美歌を有っていない、しかし山好きな自分の眼には、ただもう日本第一の創造と見える。
生物の絶無な時分のこと、暦に乗らぬ時間を存分寝て、ふと眼を啓《ひら》くと、肌の温みに氷河の衣がいつか釈《と》けている、また一瞬間、葛城、金剛、生駒、信貴山などいう大和河内あたりの同胞《はらから》が、人間に早く知られる、汚される、夭死《わかじに》をしてしまう、それを冷たい眼で見て、いつか有《あ》らゆる生物が造化の大作《マスタアピース》の前に俛首《うなだれ》て来ることすら知らずにいる、知らるることいよいよ晩きは、彼らの偉大なる所以《ゆえん》である。千年も万年も、依然として肩から上を雲に、裾から下を水に洗わせている、その下の渓谷は、父の家でない、原始の土である、綿々たる時代の人間の夢が住む、幽寂の谷である、何故かというに、善光寺街道、木曾街道、糸魚川街道などを、往《ゆ》き来《か》う昔から今までの旅人が、振り仰いで見たのは、この奇怪な山々で、追分に立てた路標の石も、峠の茶屋の婆さまも、天外に高く懸れる示現は、別に説明のしようもないから、夏もなお「山は雪が残っているずらあ」と感嘆するくらいなものだ、百人の中《うち》に一人歴史家が来る、名もなき山よ山の奥にも年代やあると、怪訝《けげん》な顔して過ぎてしまったろう、また一人画家が来る、山の紫は茄子《なすび》の紫でもない、山の青は天空の青とも違う、秋に殞《いん》ずる病葉《わくらば》の黄にもあらず、多くの山の色は大気で染められる、この山々の色の変化は、全能の手が秘蔵のパレットを空しゅうして塗った山だ、竟《つい》にこれ我物ならずと、呟《つぶや》いたことであろう、宗教家が来る、博物学者が来る、山の黙示、水の閃めき、人の祈るところ、星の垂るところ、雲の焼くところ、かしこに自然の関鍵を握れるものありと、羨ましくおもったろう、馬士が通る、順礼が通る、農夫が鍬《くわ》取る手を休めて佇《たたず》む、諸《もろも》ろの疲れ、煩い、興奮は、皆この無辺際空の大屏風《だいびょうぶ》へ来て行き止まりとなる。想像するがままに任せた山、感情を塗りかえした山、その山の暗き森と、深い谷、過去へと深く行き、遠く行くだけ、紀念は次第に成熟する、石の上を走っている水の面の経緯《たてぬき》は、幾世の人の夢を描いては消し、消しては描いているのである。
神代ながらの俤《おもかげ》ある大天井、常念坊、蝶ヶ岳の峰伝いに下りて来た自分は、今神河内の隅に佇んだ。
鼻の先には穂高山が削り立っている、水の平らに走る波動に対して、直角に厳《いかつ》い肩を聳やかしている、その胸毛の底に白い蕊《しべ》を点じたのは雪である、アルプス一帯に雪の降るのは、それは早いもので、九月の末には、白くなるほどつもらぬまでも、氷の毛のようなのが石角を弾《はじ》き初める、来年の七、八月まで消えない、最も北へ行くほど深くて、その雪田も大きくなるが、穂高山などは、傾斜が急なのと外気に曝《さら》されているので、雪は蓮華山ほどにはない、紫黒色の大岩が、脚下に吼《ほ》える水に脚を洗わせて、ここのみは冬の雪壁動くかと見るとき、自然の活動元素は、水に集中されているようだ、水は氷雪の結象《コンクリーション》から、流通大自在の性《さが》を享け、新たなる生命を賦与せられたものの特権として盛んに奔放する。低きには森あり、林あり、野の花あり、しかして高きには雪あり、氷あり、我らの不二山は、小さい山だが、熱帯地方の二倍も高い山より偉大なるは、雪と氷に包まれているためである。穂高といわず、槍ヶ岳といわず、奥常念、大天井に至るまで、万古の雪は蒸発しないで下層から解ける雪だ、死の如く静粛に、珠の如く浄美な雪から解けた水の、純粋性の緑を有することは、言うまでもない。
神河内に流れ落ちる水の脈が、およそどれほどであろう、自分は隅々|隈《くま》なく、跋渉《ばっしょう》したわけではないが、自分の下りて来た穂高山の前の短沢《みじかさわ》を始めとして、槍ヶ岳の麓の徳沢、槍沢、横尾谷、それから一ノ俣、二ノ俣、赤岩小舎の傍の赤沢、引きかえして霞沢山から押し出す黒沢というのは、炭質を含んだ粘板岩が、石版を砕いたように粉になっているもの。白沢はこれに反して、白く光る石英粒の砂岩である、その他名のない沢を合せたら幾十筋あるかも知れぬが、それが絡み合って本流になるのが梓川だ、その本
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