梓川の上流
小島烏水
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)明科《あかしな》停車場
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)千島|桔梗《ききょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)※[#「皺」から皮を抜いたものに「俊」の作り、145−14]皺《ひだ》
−−
一
明科《あかしな》停車場を下りると、犀《さい》川の西に一列の大山脈が峙《そばだ》っているのが見える、我々は飛騨山脈などと小さい名を言わずに、日本アルプスとここを呼んでいる、この山々には、名のない、あるいは名の知られていない高山が多い、地理書の上では有名になっていながら、山がどこに晦《か》くれているのか、今まで解らなかったのもある――大天井《おてんしょう》岳などはそれで――人間は十人並以上に、一寸でも頭を出すと、とかく口の端にかかる、あるいは嫉みの槌《つち》で、出かけた杭が敲《たた》きのめされるが、この辺の山は海抜いずれも一万有尺、劫初《ごうしょ》の昔から間断なく、高圧力を加えられても、大不畏《だいふい》の天柱をそそり立《たて》ている。山下の村人に山の名を聞くと、あれが蝶ヶ岳で、三、四月のころ雪が山の峡《はざま》に、白蝶の翅《はね》を延しているように消え残るので、そう言いますという。遥に北へ行くと、白馬岳が聳《そび》えている、雪の室は花の色の鮮やかな高山植物を秘めて、千島|桔梗《ききょう》、千島|甘菜《あまか》、得撫草《うるっぷそう》、色丹草《しこたんそう》など、帝国極北の地に生える美しいのが、錦の如く咲くのもこの山で、雪が白馬の奔《はし》る形をあらわすからその名を得たということである。白馬岳の又の名を越後方面では大蓮華山といっている、或人の句に「残雪や御法《みのり》の不思議蓮華山」とあるからは、これも一朶の白蓮華、晶々たる冬の空に、高く翳《かざ》されて咲きにおうから、名づけられたのかも知れない。
あわれ、清く、高き、雪の日本アルプス、そのアルプスの一線で、最も天に近い槍ヶ岳、穂高山、常念岳の雪や氷が、森林の中で新醸《にいしぼ》る玉の水が、上高地を作って、ここが渓流中、色の純美たぐいありともおぼえない、梓《あずさ》川の上流になっている。
土人はカミウチ、あるいはカミグチとも呼んでいるが、今では上高地と書く、高地はおそらく明治になってからの当字であろう、上も高地も同じ意味を二つ累《かさ》ねただけで、この地を支配している水や河という意義がない、穂高山麓の宮川の池の辺に穂高神社が祀《まつ》ってある、その縁起《えんぎ》に拠《よ》ると、伊邪那岐命《いざなぎのみこと》の御児、大綿津見《おおわたつみ》の生ませたまう穂高見《ほたかみ》の命《みこと》が草創の土地で、命《みこと》は水を治められた御方であるから今でも水の神として祀られて在《い》ます、神孫数代宮居を定められたところから「神垣内《かみかきうち》」と唱えるとある、綿津見は蒼海《わだつみ》のことで、今の安曇《あずみ》郡は蒼海から出たのであろう、自分は土地に伝わっている神話と地形から考えて、「神河内《かみこうち》」なる文字を用いる、高地には純美なるアルプス渓谷の意味は少しもない、「河内《こうち》」は天竜川の支流和田川の奥を八重河内というし、金森長近が天正十六年に拓いた飛騨高原川沿道を河内路と唱えているから、この地に最もふさわしい名と考える。
神河内の在るところは氷柱《つらら》の如き山づたいの日本アルプスの裏で、信濃南安曇郡が北に蹙《ちぢ》まって奥飛騨の称ある、飛騨|吉城《よしき》郡と隣り合ったところで、南には徳本《とくごう》峠――松本から島々《しましま》の谷へ出て、この峠へ上ると、日本アルプスの第一閃光が始めて旅客の眼に落ちる――と、北は焼岳《やけだけ》の峠、つづいては深山|生活《ずまい》の荒男《あらしお》の、胸のほむらか、硫烟の絶え間ない硫黄岳が聳えている、その間を水に浸された一束の白糸が乱れたように、沮洳《じめじめ》の花崗《みかげ》の砂道があって、これでも飛騨街道の一つになっている、東には前に言った穂高や、槍ヶ岳、やや低いが西に霞沢岳、八右衛門岳が立っている、東西は一里に足らず、南北は三里という薬研《やげん》の底のような谷地であるが、今憶い出しても脳神経が盛に顫動《せんどう》をはじめて来る心地のするのは、晶明、透徹のその水、自分にあっては聖書にも見えない創造の水、哲人の喉頭にも迸《ほとばし》らない深思の水、この水を描いて見よう。
二
路傍の石の不器用な断片《きれっぱし》を、七つ八つ並べて三、四寸の高さと見ず、一万尺と想ってみたまえ、凸凹《たかひく》もあれば、※[#「皺」から皮を抜いた
次へ
全7ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング