川流が変って、孤り残された上へ、この頃の雨で潦《にわたずみ》となったのであろう、その周囲には、緑の匂いのする、黴《かび》の生えた泥土があって、踝《くるぶし》まで吸いこまれる、諸君は深山の沼林《ボッギイ・ウッド》の寂蓼を味いたることありや、何年かの落葉(七葉樹《とち》だの、桂だの、沢栗だの)の、肉が消えて網のような繊維ばかり残り、それも形がおぼろになって、この沼の中に月の光を浴び、甘き露を舐《な》めた執念が残っている、落葉、落葉、また落葉、生々しい青葉は無色になり、輪廓ばかりの原画になって、年々無数に容赦なく振い落される、いつか冬の野原で、風もない、微《そよ》とも動かぬ楢林の中で、梢にこびりついている残葉の或一枚だけが、ブルブル震えているのがあった、同じ梢に並んでいる葉が、皆沈黙しているのに、この葉だけは烈しく慄《ふる》えている、無論虫一疋いないのだ、末期に迫った廃葉の喘ぎは烈しかった、沼の中にも苦痛の呼吸を引いた自然の虐殺、歓喜のどよみを挙げる自然の復活は、行われている。
この辺になると、森の中に幾筋かの路が出来ている、放された牛馬どもは、無慮五百頭はいよう、六月下旬植えつけが済んで、農家が閑になると、十月上旬頃までここへ放し飼にするのだ、彼らは縦に行き、横にさまよい、森の中の木々に大濤《おおなみ》の渦を捲いて、ガサガサひどい音をさせる、遠くから見ると、大蛇《おろち》が爬《は》っているのかとおもう、かくて青々と心まで澄んだ水の傍まで来ては、絶望の流人のように悄然《しょんぼり》と引きかえす、また来ては引きかえす、引きかえしてはまた来る。
宮川の小舎へ辿り着いた、老猟士嘉門次がいるので、嘉門次の小舎とも呼ばれる、主人は岩魚《いわな》でも釣りに往ったかして戸が閉っている、小舎の近傍《そば》には反魂草《はんごんそう》の黄《きいろ》い花が盛りだ、日光から温かい光だけを分析し吸収して、咲いているような花だ、さっきの沼の傍で、冷たそうに咲いていた菖蒲《あやめ》と比べて、この性の微妙なる働きをおもう、小舎の後には牛馬の襲わないように、木垣が結んである、梓川へ分派する清い水が直ぐ傍を流れている、鍋や飯櫃《めしびつ》も、ここで洗うと見えて飯粒が沈んでいる、猟犬が胡乱《うろん》くさい眼で自分たちを見たが、かえって人懐つかしいのか、吠えそうにもしない、一体この神河内には、一里も先にある温泉宿を除いて、小舎が二戸ある、一つは徳本峠を下りると直ぐの小舎で、二間四方の北向きに出来ている、徳本の小舎というのがそれで、放し飼の牛馬を一頭|幾銭《いくら》という、安い賃金で、監督する男が住んでいる、川を渉って七、八町も行くと、この宮川の小舎へ出る。
ここは自分に憶い出の多い小舎である、六年のむかし、槍ヶ岳へ上る前夜、この小舎へ山林局の役人と合宿したとき、こういう話を聞いたからで。
飛騨の豪族、姉小路大納言良頼の子、自綱《よりつな》と聞えしは、飛騨一国を切り従えて、威勢|並《ならぶ》ものとてなかったに、天正十三年豊臣氏の臣、金森長近に攻められ、自綱は降人に出た、その子秀綱は健気《けなげ》にも敵人に面縛するを肯《がえ》んぜず、夫人や、姫や、侍婢、近侍と共に出奔した、野麦峠を越えて、信州島々谷にかかったころは、一族主従離れ離れになり、秀綱卿が波多《はた》へ出ようとするところを、村の人々に落人《おちうど》と見られて取り囲まれ、主従ここで討死をした、姫は父を失い、母にはぐれ、山路に行き暮れて、悩んでいるのを、通りがかりの杣人《そまびと》が案内を承ると佯《いつ》わり、姫を檜に縛《いま》しめ、路銀を奪って去った、ややありて姫は縛を解き、鏡を木の枝にかけていうことに、鏡は女子の魂ぞ、一念宿りてつらかりし人々に思いをかえさでやと、谷底に躍り入って水屑《みくず》となる、かの杣人途にて姫の衣も剥ぐべかりけりとほくそえみて木の下に戻れば、姫はあらで鏡のみ懸かれる、男ふと見れば、鏡のおもてに冷艶雪の顔《かんばせ》して、恨の眼《まなこ》星の如く、はったと睨むに、男|頓《とみ》に死んでけり、病める夫人は谷間へ下り立ち、糧にとて携えたる梨の実を土にうずめ、一念木となりて臨終の土に生いなむ、わが夫《つま》の御運ひらかずば、永《とこし》えに美《うま》き果《み》を結ぶことなかるべしと、終《つい》に敢えなくなりたまう、その梨の木は、亭々として今も谿間にあれど、果は皮が厚く、渋くて喰われたものでない、秀綱卿の怨念《おんねん》この世に残って、仇《あだ》をした族《やから》は皆癩病になって悶《もが》き死《じに》に死んだため、島々には今も姫の宮だの、梨の木だのと、遺跡を祀ってあるという。
囲炉裏に榾《ほた》をさしくべ、岩魚の串刺にしたやつを炙《あぶ》りながら、山林吏が、さっき捨てた土饅頭は何だね、と案内
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