の猟師に訊ねる、旦那、ありゃ飛騨の御大名の墳《はか》で、と右の一伍一什《ふしぶし》をうろ覚えのままに話す、役人は、そんな由緒《いわれ》のあるものと知ったら、何とか方法《やりかた》もあったものをと口惜しそうな顔をした。林道開拓のため、途に当った古墳は、破毀《はき》されたのである。もう今ごろは石の砕片《きれっぱし》、一ツなかろう、仮令《よし》あってもそれが墳墓であったことを、姉小路卿なる国司の在りし世を忍ばせる石であったことを、誰が知ろう、月の世界に空気なく、日本アルプスに人間もなければ、時代もないと思っていた自分は、この悲壮な、クラシックな話に、どんなに動かされたであろう、事業が消えて名が残る、名が消えて石が残る、せめて石さえ存在すれば「誰か」の「何か」であるぐらいな手繰りにはなる、人の唇より酬《むく》われた語《ことば》に曰く、「こんな邪魔なもの抛《ほう》り出せ」これで一切の結末がついた、時代は天正から明治まで垂直に下る、雲の中から覗いている万山は、例の如く冷たい。
嘉門次が帰りそうにもないので、小舎から二、三町も行く、鳥居があって四尺ばかりの祠《ほこら》を見せる、穂高神社の奥の院だという、笹を分けると宮川の池。
明神岳の名を負うている穂高岳の下にあるから、明神の池ともいう、一ノ池、二ノ池、三ノ池と、三つの明珠をつないでいる、一ノ池から順に上の池、中の池、下の池とも言う、一ノ池が一番大きくて、二ノ池がこれに次ぐ。
青色光の強い水が、濃厚に嵩《かさ》を持って、延板《のべいた》のように平たく澄んでいる、大岳の影が万斤の重さで圧《お》す、あまり静《しずか》で、心臓《ハート》形の桔梗の大弁を、象嵌《ぞうがん》したようだ、圧すほど水はいよいよ静まりかえって爪ほどの凸面も立てない、山が厳格な沈黙を保てば、水も粛然として唇を結んでいる、千年も万年も、この山とこの池とは二重に反対した暗示を有《も》った容貌《かたち》を上下に向け合っている、春の雪が解けて、池に小波立つときだけ艶《あで》やかに莞爾《にっこり》する、秋の葉が髪の毛の脱けるように落ち出すともう真面目になる、なお見惚《みと》れる。
この狭い谷の中の小さい池は、我らの全宇宙である、過去の空間に立つ山と、未来に向って走る川との間に介《はさ》まって、池は永《とこし》えに無言でいる、自分たち二人(自分は嚮導《きょうどう》兼荷担ぎの若い男を伴っている)だけが確に現在[#「現在」に白丸傍点]である、我らは詛《のろ》われているのではないかとおもう、不安を感じないわけにはゆかない、見よ、緑の一色を除いて、生けるものの影とては、何もない、禽《とり》も啼かないから肉声も聴かない。
白芥子《しろけし》の花のような日光がちらり落ちる、飛白《かすり》を水のおもてに織る、岩魚が寂莫を破って飛ぶ、それも瞬時で、青貝摺の水平面にかえる、水面から底まではおそらく、二、三尺位の深さであろうが、穂高岳を畳んで、延ばしたり、縮めたり、自在にする、水の底に白く透いて見えるのは、石英が沈んでいるのだ。
二ノ池の方に廻る、池には石が座榻《ざとう》のように不規則に、水面に点じている、岸には淡紅の石楠花《しゃくなげ》が水に匂う、蛇紋が掻き破られて、また岩魚が飛ぶ、石楠花の雫を吸っている魚だから、腸《はらわた》まで芳芬《におい》に染まっていないかとおもう。
三ノ池は一ノ他の半分ほどしかないが、木が茂って松蘿《さるのおがせ》が、どの枝からも腐った錨綱《いかりづな》のようにぶら下っている、こればかりではない、葛、山紫藤《やまふじ》、山葡萄などの蔓は、木々の裾から纏繞《まといつ》いて翠《みどり》の葉を母木の胸に翳《かざ》し、いつまでもここにいてと言わぬばかりに取り縋っている。
夕暮になると、件《くだん》の松蘿や、蔓は大蜘蛛の巣に化けて、おだまきの糸の中に、自分たちを葬るに違いない。
四
その夜は、上高地温泉に泊った、六年前に来たときは、温泉は川の縁に湧いていて八十年前とかに建てた、破れ小舎があるばかり、落葉は沈む、蛇の脱殻が屋根からブラ下る、猟士ですら、浴を澡《と》らなかったものだが、今は立派な温泉宿が出来た、それにしても客の来るのは、夏から秋だけで、冬は雪が二尺もつもる、風が勁《つよ》くて、山々谷々から吹き※[#「風+陽のつくり」、第3水準1−94−7、157−3]《あ》げ、吹き下すので、砂丘のようなものが方々に出来る、温泉の人々は宿を閉し、番人一人残して里へ下りてしまうそうである、宿は二階建ての、壁も塗らない白木造りで、天椽《てんじょう》もない、未だ新しくて木の匂いがする、これで室《へや》が分けてなかったら、神楽堂だ。
何という茸か知らぬが、饅頭笠の大きさほどのを採って来て、三度の飯に味噌汁として出されたの
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