の主観」に傍点]ともいうべきものは、第四の識であって、この意識が、客観の「色」と交渉し、関係することによって、生ずる心象《こころのすがた》が、受と想と行との三であります。したがって「五蘊は空[#「五蘊は空」は太字]」だということは、つまり、世間にある一切の存在《もの》はみんな空だということになるのであります。ゆえに「空の中には色もない、受、想、行、識もない」といえば、私どもも[#「私どもも」に傍点]、私どもの住んでいる世界も[#「私どもの住んでいる世界も」に傍点]、つまり[#「つまり」に傍点]、一切のものはすべて空なる状態にあるのだ[#「一切のものはすべて空なる状態にあるのだ」に傍点]、ただ因縁によって仮に有るものであるから、執着すべき何物もない、ということになるわけであります。
 次に「処」とは、十二処ということで、「六根」と「六境」といったものです。ところでその六根とは、あの富士山や御嶽《おんたけ》山などへ登る行者たちが、「懺悔《さんげ》懺悔、六|根清浄[#「六|根清浄」は太字]《こんしょうじょう》」と唱える、あの六根で、それは眼、耳、鼻、舌、身の五官、すなわち五根に、「意根」を加
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