のです。いったい西洋の学問の目的は知るということが主眼ですが、東洋の学問の理想は行なうことが重点です。すなわち知るは行なうのはじめで、知ることは行なわんがためです。しかも行なってみてはじめて、ほんとうの智慧ともなるのです。有名な『中庸』という本に「博《ひろ》く之を学び、審《つまびら》かに之を問い、慎んで之を思い、明らかに之を辨じ、篤《あつ》く之を行う[#「行う」に傍点]」という文句《ことば》がありますが、けだしこれはよく学問そのものの目的、理想を表わしていると思います。ところで観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行ずるということは、つまり般若の智慧を完成されたということですが、それは要するに六度の行を実践されたことにほかならぬのです。六度とは六|波羅蜜《はらみつ》のことで、布施《ふせ》(ほどこし)と持戒《じかい》(いましめ)と忍辱《にんにく》(しのび)と精進《しょうじん》(はげみ)と禅定《ぜんじょう》(おちつき)と般若《はんにゃ》(ちえ)でありますが、まえの五つは正しい実践であり、般若は正しい認識であります。
智目と行足[#「智目と行足」は太字] 古来、八宗の祖師といわれるかの有名な竜樹《り
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