ゅうじゅ》菩薩は、『智度論』という書物の中で、「智目行足《ちもくぎょうそく》以て清涼《せいりょう》池に到る」といっておりますが、清涼池とは、清く涼しい池という文字ですが、これは迷いを離れた涅槃《さとり》の世界を譬《たと》えていったものです。この涅槃《ねはん》の証《さとり》へ達するには、どうしても、この智目と行足とが必要なのです。智慧の目と、実行の足、それは清涼池《さとり》への唯一の道なのです。ですから、昔から仏教では、この智目行足[#「智目行足」に傍点]ということを非常に重要視しています。ところで、その「智目」というのが智慧の眼(般若)のことです。つまり正しき認識[#「正しき認識」に傍点]、理論[#「理論」に傍点]ということです。次に「行足」とは、実行(五行)です。正しき[#「正しき」に傍点]実践ということです。いったい、実行の伴わない理論は、灰色でありますが、同時にまた、理論の伴わぬ、いわゆる筋のたたぬ実践も、またきわめて危険です。智目と行足を主張する、仏教の立場は、あくまで正しき理論と実践との高次的な統一を主張するものであります。したがって仏教における哲学と宗教とは、要するに、この
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