宗教をば親しく実践[#「実践」に傍点]されたのです。ところで、この「深」という文字ですが、この深という字については、昔からいろいろむずかしい解釈もありますが、要するに深は浅の反対で、深遠とか、深妙とかいう意味です。観音さまの体得せられた、般若の智慧《ちえ》の奥ふかいことを形容したことばだと考えればいいのです。したがってそれは私ども人間のもっているような、あさはかな智慧ではなく、もっともっと深遠な智慧、すなわち「一切は空なり」と照見した真理の智慧を指していったのです。それから、ここでお互いがよく注意しておかねばならぬ文字は、「般若波羅蜜多を行ずる[#「行ずる」に傍点]」という、この「|行[#「行」は太字]《ぎょう》」ということば[#「ということば」は太字]です。これがたいへん重要なる意味をもっているのです。あえてゲーテを待つまでもなく、いったい宗教の生命は「語るよりもむしろ歩むところにある」のです。いや宗教は、語るべきものではなくて、歩むべきものです。しかも、その歩むというのは、この「行」です。行ずるということが、歩む[#「歩む」に傍点]ことであり、実践する[#「実践する」に傍点]ことな
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