、心の眼のないこと、心の耳をもたないことをいったのです。ですからこの心眼を開けばこそ、私どもは、形のない形が見えるのです。心耳をすませばこそ、声なき声が聞こえるのです。俳聖|芭蕉《ばしょう》のいわゆる
「見るところ花にあらずということなし、おもうところ句にあらざるなし」(吉野紀行)
 というのはまさしくこの心の眼を開いた世界です。心の耳をすまして聞いた世界です。つまり観察するという心持でもって、大自然に対した芸術の境地であります。ところで、いま観世音は実にこの心の眼を、大きく見開いて、一切を観察するとともに、また心の耳をすまして、一切の音声を聞かれた、いや、現に聞かれつつあるのです。そして慈愛のみ手を一切の人々のまえにさしのべられつつ[#「つつ」に傍点]あるのです。
 さてこの観世音菩薩が、「深般若波羅蜜多《じんはんにゃはらみた》を行《ぎょう》ずる時」というのは、どんな意味であるかというに、すでに申し上げておいたごとく、それは、観音さまが甚深微妙《じんしんみみょう》なる般若の宗教を実践せられたということで、観世音は、単に心の眼を見開いて、般若の哲学を認識せられたのみでなく、進んで般若の
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