その昔、宮本|武蔵《むさし》は『五|輪書《りんのしょ》』という本のなかで「見の眼と観の眼[#「見の眼と観の眼」は太字]」といっておりますが、武蔵によれば、この観の眼によってのみ、剣道の極意《ごくい》に達することができるのでありまして、彼は剣道において、観の眼、すなわち心の眼の修業が、いちばんたいせつだということを力説しております。しかし、それは単に剣道のみではありません。どの商売でも、どんな学問でも、何につけても、いちばんたいせつなのは、この「観の目」です。心の眼です。有名なカントが、「哲学する」といっているのも、つまりはこの観の目でみることです。スピノーザが「永遠の相において」ものをみよというのもそれをいったものです。私どもは平生、なんの気なしに、見てみる[#「みる」に傍点]とか、聞いてみる[#「みる」に傍点]、とかいうことばを使っておりますが、その見てみる[#「見てみる」に傍点]、聞いてみる[#「聞いてみる」に傍点]という、その「みる[#「みる」は太字]」というのは、つまり心眼のことです。心の眼でものをみることです。「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」というのは
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